楽天ブックス 著者インタビュー

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短歌は学校で習ったものの、どうも馴染みがない――と感じている人は少なくないかもしれません。一方、子供の頃に誰もが親しんだのが絵本ではないでしょうか。現代短歌界で最も注目される歌人、穂村弘さんが<短歌>+<絵本>という、これまでにない組み合わせのシリーズを出版。全5巻の1作目『そこにいますか 日常の短歌』では、ユーモラスな絵と穂村さんの解説によって、斎藤茂吉や北原白秋、現代の歌人たちが日々の暮らしを綴った14首が紹介されています。独自の視点で意欲作を発表し続ける穂村さんが語る、めくってびっくり!の仕掛けも楽しい短歌絵本、五・七・五・七・七の面白さとは……?

プロフィール

穂村 弘さん (ほむら・ひろし)
1962年札幌生まれ。上智大学文学部英文学科在学中より短歌を作り始める。大学卒業後、一般企業に勤務しながら1990年に歌集『シンジケート』(沖積舎)でデビュー。2002年には自身の日常を綴った初エッセイ集『世界音痴』が話題に。著書に歌集『手紙魔まみ、夏の引越(ウサギ連れ)』、『ラインマーカーズ The Best of Homura Hiroshi 』、短歌入門書『短歌という爆弾』(ともに小学館)、エッセイ集『にょっ記』(文藝春秋)、『ほんとうはちがうんだ日記』(集英社)など。『ちずのえほん』(フレーベル館)ほか“ほむらひろし”としての絵本翻訳も多数。

インタビュー

−−『「おはよう」に応えて「おう」と言うようになった生徒を「おう君」と呼ぶ』 この千葉聡さんの作品をはじめ、『そこにいますか 日常の短歌』では身近な出来事を綴った短歌が絵と一緒に紹介されていて、とても親しみやすく感じました。短歌と絵本を結びつけようと思ったきっかけは何ですか?
穂村さん短歌絵本のアイデアは、そもそも出版社の方から出てきたもので、正直、最初は難しいかな、と思いました。例えば若山牧水の「白鳥(しらとり)は哀(かな)しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」という有名な歌がありますが、その白鳥が一羽なのか複数なのか、空を飛んでいるのか、海に浮かんでいるのかは特定できないんですね。本来の短歌には特定できない多義性があって、読んだ人が心の中でイメージを作っていくものなので、それを絵にするには、イメージを特定せざる得ないリスクがあると感じて。でも逆に、絵にしてみせる面白さもあると思いました。短歌が読まれないのは、言葉の多義性を読み取るのにスキルがいるからです。絵にすることで、スキルがない人にも一目瞭然になるわけで、だから多くの人に短歌に触れてもらうにはいいのではないかと考えました。
−−この短歌絵本は全5巻のシリーズで、毎回テーマと絵が変わるそうですね。絵がイメージを特定する役割を担うわけですが、画家の方とはどんなやりとりをされたのですか?
穂村さん基本的にはお任せして、ラフを見せてもらった時点で歌の解釈に疑問があるものには、修正を入れて頂いたりしました。僕自身が解釈に自信がない時は、作者に「こうしたイメージになるけどいいですか?」と尋ねたこともあります。といっても、作者の意図が正解というわけでもなくて、別の人の読み方のほうがいいという場合もありますし。
−−短歌の解釈に正解はない……ということですね?
穂村さん 完全な正解はないですね。自分の作品に関しても、読者の中には、僕の意図以上に読んでくれる人もいますから。ただし、解釈に正解がないから、感受性のままに楽しめばいいと言ったりするけれど、だからといって読まないでしょう。それならむしろ、一度強引にビジュアル的なイメージを提示して、多義性を絞り込んでみせたほうが、読んでもらうためには現実的な気がしますよね。短歌は「わからない」という意識のハードルが高いジャンルのものなので、わかるだけでも面白さが感じられると思うんです。
−−14首にはそれぞれ穂村さんの解説が添えられていますが、解説をつけた意図とは?
穂村さん多義性のある短歌を絵で一元化することになるので、解説はそこから多義性のほうにちょっと戻すためのものでもあるんです。絵を見て分かっても、解説を読むとまた少しわからなくなるような、そんな狙いで付けました。
−− この絵本を読んでみて、短歌は情報が少ないわりに、1つひとつの言葉の存在感が大きくて、たんに情報として通り過ぎるのではなく、長い間、頭の中で滞空している気がしたのですが。
穂村さん 歌の言葉は情報伝達のツールではないからですね。先程の短歌で、生徒が「おう」と言ったのは事実でも、それを「おう君」と名付けるのは、「そう呼んだほうが面白いな」といった言葉のレベルでの遊び、反射神経みたいなものが機能しているからで、だから作品として成立するんです。「おう君」と呼ばれて「ふざけんなっ」と反応するのが実際には自然でも、それを描写しても短歌にはならないわけです。

穂村さん

−−なるほど。ご自身は大学生の時、たまたま図書館で短歌の本に出会ったそうですが、なぜ短歌に惹かれたのですか?
穂村さん僕は温泉に行っても、お風呂に入らないこととかがあるんですよ。“露天ジャングル風呂”と言われるとなんだかハードルを感じて入れない(笑)。僕に限らず、温泉に行っても部屋で推理小説を読んでいたい人はいるんじゃないかと思います。でも、僕が大学生だった80年代は、そうしたことにワクワクして楽しむといった一般的な意見に合わせられない人の存在が、社会から抹消されていたような世界だったんです。大学に入ったからといって、僕はテニスもしたくなかったし、そうしたある種の共通認識が存在することへのストレスがとても強かった。ただ、異性の視点を考えると、テニスが上手い男子と短歌が好きな男子だったら、圧倒的にテニスが上手いほうがいい(笑)。そんな状況が居心地悪くて、短歌をやりたいというより、違う世界を探したら短歌だった。まあ、80年代の大学で短歌をやっていたら、変質者っぽくは思われますけど、誇張ではなくて(笑)
−−小説ではなく、五・七・五・七・七の定型がある短歌に惹かれた理由はありますか?
穂村さん自由に書けと言われるより、例えばメロン、泥棒、温泉という言葉を使って話を書けと言われると意欲が沸いたりすることって、誰にでもあると思うんです。メロン、泥棒、温泉の言語同士が有機的な反応が起きる。心はもちろん関与しますが、言葉がツールとして作用するのではなく、言語同士の有機的な反応が生まれます。だから自由に書いているより難しいいけれど、面白いというのはありますね。 詩や短歌があって純文学があり、エンターテインメントがあるとすれば、エンターテインメントにとって、言葉はあくまでもツールなんですよ。だから言葉は死んでいて、それを使うことで読者にストーリーを手渡しているでしょう。それが純文学になると言葉が生きてきてしまう。言葉が生きてくると、今度はストーリーやキャラクターが一義的には手渡されなくなる。エンターテインメントだと誰が怒って笑って、というのがすぐ理解できるのに、純文学になると何が起きたかよくわからないのは、言葉が生きてくると「この人たちの関係は?」というのが一言で表せなくなるから。短歌や詩では言葉がもっと生きてくるので、あれだけの情報量でも脳が処理しようとすると一杯になってしまうんですね。
−−そんな風に、言葉が活発に生きているのが短歌の面白さなのでは?
穂村さんそうですね。ただ、新聞記事や会社の資料では言葉が死んでいるのは、そうじゃなければ困るわけで、非常に独創的な比喩だらけでは、ニュースの伝達という機能が果たせないでしょう。ニュースの必要性や面白さもあるわけです。反面、その裏に張り付いているもっと臨場感のある生の現場、というのがありますよね。こうして言葉をコミュニケーションのツールとして使っている時空間の裏側に、誰もがマグマみたいなエリアを抱えていて、そうした世界の価値は誰にとっても大きいのに、新聞のニュースのような社会的価値を持ったものではないので、みんなその世界と現実を往復しているんです。でも、1人になった時に自分の中のマグマの部分がぐっとせりあがってきて、「あら、あたし何を泣いているの?」といった意味不明な涙とか、嗚咽や憎悪となって現れる。それらは名づけがたい領域に近いものですが、生きる上で必須のものだと思います。今はポピューラーソングやお笑いなどに、それらを外に出す役割が移行していて、詩歌がそうした役割を負っている時代ではないんですね。

穂村さん

−−だからこそ、短歌の役割を多くの人に伝えたいという気持ちはありますか?
穂村さん それはありますね。時代は変わっても、誰も会社の事務連絡とか、新聞の死んだ比喩の中だけで生きたくないわけで、自分の中にあるポエジー、詩的世界はあるし、それを活性化させたいという潜在的な望みはあると思うので。
−−今回のような絵本という形は、短歌に触れるきっかけになりそうですね。
穂村さん そうですね。僕にとっては、スーツを着て新聞を読む世界と、例えば恋人が狂った目で自分を見る世界が2分されているというのが納得いかないことなんです。2つの世界の間に流通性はあるし、あってもいいと思う。会社勤めをしていた時、会議室で「この人とつきあったらどうなるか」といったことをいつも考えたり(笑)。2人組がネタをやるだけがお笑いではないし、会社の会議室にもお笑いは存在する。会議室にも恋愛的なものはあるわけで、そういう感覚は万人の中にあると思うんですよ。ところが、会議室と寝室は分けなくては……と社会的な強制力がその2つを分離しようとする。そのほうが効率がいいからだということなのでしょうが、それは社会全体の効率であって、個人としては生きてから死ぬまで、そうした強制力に支配されるのは大変な赤字です。そうでない実感があればあるほど、おいしい一生だと思うのですが(笑)。
−−大赤字にならない人生を送りたいものです(笑)。今日はありがとうございました。

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