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混乱の時代を見つめた19歳の瞳…。みずみずしい感性と表現力にあふれた日記に心打たれます。門田隆将さん ノンフィクション『康子十九歳 戦過の日記』

昭和20年8月6日。日本人が決して忘れてはならない広島への原爆投下の日です。当日、疎開先の新潟にいた康子さんは、母の看病のため東京へ戻って広島に向かい、二次被爆のため亡くなりました。軍部と警察が衝突した「ゴー・ストップ事件」を調べていて、その時の大阪府警察部長であり、後に広島市長として命を落とした粟屋仙吉氏の次女・康子さんの存在を知ったジャーナリストの門田隆将さんは、康子さんが残した日記に感銘を受け、彼女の生涯を追います。康子さんをはじめ、太平洋戦争下、生と死の狭間で懸命に生きた感動の青春群像を一人でも多くの方に知って欲しいと思います。


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原爆の2次被爆で逝った粟屋康子さんの日記を元にその生涯を追います。
『康子十九歳戦渦の日記』
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最愛の妻子が殺害された「光市母子殺害事件」を圧倒的な取材と秘話で綴った感動の記録
『なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日』
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『激突!裁判員制度 (井上薫/門田隆将)』
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『裁判官が日本を滅ぼす』
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昭和6年と平成18年、同じ甲子園のマウンドに立った早実二人のエースを描いたノンフィクション
『ハンカチ王子と老エース 奇跡を生んだ早実野球部100年物語』
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プロフィール


門田隆将さん
1958年、高知県生まれ。大学卒業後、新潮社に入社。週刊新潮編集部で政治・経済・歴史・事件などの様々な分野でスクープをものにする。特に、少年事件においては、神戸で起きた酒鬼薔薇事件の被害者遺族の手記を発掘するなど、少年法改正に大きな役割を果たした。2008年4月にフリーのジャーナリストとして独立。NHK土曜ドラマ「フルスイング」の原案となった「甲子園への遺言」や、光市母子殺害事件を描いた『なぜ君は絶望と闘えたのか―本村洋の3300日』は、共に10万部を超えるベストセラーになっている。

インタビュー


門田隆将さん−−本のタイトルにもなっている粟屋康子さんの日記は、どのように出会われたのですか?

門田さん そもそもは、康子さんの父親である粟屋仙吉さんについて調べていたんです。粟屋仙吉さんは、軍部と警察という当時の2大権力が激突した昭和の大事件、「ゴー・ストップ事件」の当事者なんですね。軍部が台頭していた1933年、大阪の天六交差点で警察官に信号無視を咎められた軍人がその警察官ともみあいになり、やがてこれをきっかけに「公衆の面前で軍服姿の軍人を侮辱した」として、陸軍が警察に謝罪を要求する大事件に発展していきます。これに対して、当時、大阪府警察部長だった粟屋さんはひるむことなく、「謝罪は不要」という毅然とした態度を貫いたんですね。軍部も警察も一歩も引かず、やがて天皇陛下が事態収拾を指示するまで事件は大きくなったのです。粟屋さんには今の政治家や官僚にはない「気概」というものがありました。彼の生き方や人物像を描きたいと思い、粟屋さんの娘さんに、父・仙吉氏のお話を伺いに行ったんです。その中で、康子さんの話が出てきまして。被爆したお母様を献身的に看病した結果、二次被爆で亡くなられた康子さんの日記や手紙が残っており、これを見せてもらったのです。


−−最初にご覧になってどう思われましたか?

門田さん いや、それは驚きました。まず、字が美しい。さらに、書いている内容の感性の鋭さといい、事実描写の表現力といい、彼女が詠んだ和歌の切実さといい、すべてが驚きの連続でした。後々の取材で、康子さんが当時から非常に際立っていた人ということがわかってくるんですが、初めて日記を見た段階ではまだ何もわかっていません。ですから、「昔の人はこんなにすごかったのか」というのが正直な感想でした。たとえば、硫黄島陥落の描写。康子さんは正午のラジオ放送でこのニュースを初めて知るわけですが、それを聞いた瞬間、彼女は箸をおいて息を?み、その時の気持などを滔々と日記に書いている。そして和歌を詠み、それも日記に記されている。本の装禎に康子さんの現物の日記の文章を載せていますが、この部分(硫黄島陥落について書かれた箇所)を見てください。もう、どわーっと書き綴ってるでしょ(笑)。まったく書きよどみがないことからも、すごいスピードで書いたのが見てとれますよね。しかも、誤字脱字もなく、文字の乱れもない。それでいて、表現のクオリティも高い。この描写力は、単なる日記の範囲を超えています。いわばノンフィクション作品ですね。これが60年以上前に書かれたというんですから驚きです。


−−確かに、古さなど感じさせない、みずみずしい印象を受けました。

門田さん 康子さんの日記は単なる手記ではなく、当時の青春群像の表現なんです。親友や勤労動員の仲間といった若者の行動・思い、また自分自身の若き女性としての思いなどがすべて綴られています。でも、現代の青春群像と違うのは、彼らが常に死と隣り合わせだったということです。生と死の狭間で揺れた若者たちの青春群像なんですね。その一人の若者の告白の文章が、目の前に現れたんです。これまでにも戦時中の若者を描いた本はたくさん読みましたが、康子さんの日記はリアルさが違います。出来事があったその日、記憶が確かなうちに当事者が書いているという点で、すごい価値があるわけです。事実の重さの度合いが違うと思います。ずっしりとした歴史の重みを感じさせる日記を手にしながら、粟屋康子さんとは一体どういう人物だったんだろうと、とても興味が湧きました。それで、日記に登場する方々に取材を始めたんです。60数年前の事実を再現してもらうという作業は、とても重い作業でしたが非常に意義深い、ジャーナリストとしてはやり甲斐のある作業でした。


−−完成まで4年の歳月がかかったそうですが、取材でもっとも苦労した点は?

門田さん やっぱり時間の壁ですね。戦後から60年以上も経っているので、当然、記憶が鮮明な方とそうでない方がいらっしゃいました。ノンフィクションなので、裏が取れた事実だけを書いていますが、それ以外のコメントも膨大にありました。また、日記中の最重要人物の一人である、梁敬宣さんに何とかお話を伺いたかったんですが、彼の消息を追うのが大変でした。梁さんは台湾出身の留学生だったので、日本にはいない。当時の仲間たちに聞いても、誰も連絡が取れず、もう亡くなってるのでは、と言われていました。異国で住所も生死さえもわからない個人を探すのは困難を極めました。しかし、幸いにも、知人の台湾警察の関係者が力を貸してくれたんですね。梁さん本人に「あなたと話したがっている日本人がいる」と伝えることまでやってくれました。そこでやっと、梁さんに連絡を取ることができたんです。


−−どんな話をされたんですか?

門田さん まず電話で連絡したのですが、「粟屋康子さんのことをご存じですか? あなたのことを康子さんの妹さんに伺ったのですが」と言いました。するといきなり、「ああ、近ちゃんですか。近ちゃんは元気ですか?」と、まるで昨日の出来事を話しているかのような口調で返されたんです。60年以上のブランクがあったとは思えませんでしたね。さらに、「康子さんの日記に、梁さんの名前が頻繁に出てくるので、ぜひお話を伺いたい」という旨を話すと「粟屋さんを殺したのは私なんです」と衝撃の告白をされまして。


−−えっ! どういうことなんですか?

門田さん 康子さんは、原爆で重態となった母親の看病のため東京から広島へ行き、二次被爆して命を落とすんですが、本来ならば終戦直後の混乱の中で一般の人が東京から広島までの汽車の切符を入手するのは、ほぼ不可能だった。ところが、台湾は突然、戦勝国の側になり、そこからの留学生である梁さんは、優先的に切符を手に入れることができたんですね。そこで、梁さんは、康子さんのために広島行きの切符を入手して渡したという経緯があったんです。そのことを指して、「あのとき、私が切符を渡さなければ、粟屋さんは亡くなることはなかった」とおっしゃったんです。60数年も前のことを昨日のことのように鮮明に話されたことに私は驚きました。梁さんは、戦前のことを封印して生きてきたはずなんです。戦後、台湾に戻ったものの、台湾は国民党の苛烈な白色テロの真っ只中でした。日本留学の経歴がバレていいことはひとつもないので、生き延びるために自身の前歴を隠して生きてきた。ところが、日本人の私が連絡したことで、60年以上ずっと封印してきた日本時代の思い出の殻が割れてしまった。だから、ものすごい勢いで当時の記憶や思いが甦り、声になったんだと思います。後で、近子さんご本人に、梁さんが開口一番、"近ちゃん"のことを話していたと伝えたら、彼女も「えっ、本当ですか?」と驚いていました。


−−すごい記憶力ですね。梁さんのケースとは逆に、記憶は鮮明だけれど、当時のことを話すのは辛いと拒否された方もいらっしゃったのでは?

門田さん それはなかったですね。ただ、女性の場合は、かなりお歳を召してらっしゃるので、人前に出たくない、見知らぬ人からの取材を受けたくないというケースがありました。実は、この著書がTVで映像化されたんですが、私の取材を受けてくれた方でも、「TV? それはダメよ」と断られる方もいて。最終的には「娘に相談したら、出なくちゃダメよと怒られたから協力します」と、やっと出演を承諾してくれた人もいました。


『康子十九歳戦渦の日記』−−娘さん様々ですね(笑)。もっとも印象に残ったエピソードはありますか?

門田さん やはり、(康子さんが梁さんに渡した)髪の毛でしょうね。その後、髪の毛がどうなったかを知りたくて、梁さんを探したところもありましたから。お尋ねしたら、梁さんが台湾の自宅の庭に埋めて、その上にバラの種を蒔いていた。梁さんは、最初に康子さんに会った頃に赤いバラをプレゼントされており、「バラ」が「康子さん」の思い出と重なっていたんです。台湾でバラを育てるのは難しいのですが、康子さんの髪の毛を埋めた場所に植えたバラは、毎年美しく咲きほこった。そして代を継いで継いで、今も咲き続けていたんです。これを伺ったときは、康子さんの髪の毛がバラという形に変わって現代にも生き続けていたんだ、と本当に感動しました。現代では、髪の毛なんてどうということもないんでしょうが、当時は男女が手を握ることもできなかった時代ですから、本当に思いの詰まった貴いものだったと思います。実は、梁さんの奥様は、今回の取材で初めてこのエピソードをお知りになったそうで、取材中に驚いていらっしゃいましたけどね。


−−そ、それはまずいですね。取材陣が帰った後に気まずくなってたりして(笑)。

門田さん そう思いますよね。「だから、あなたはあんなにもバラを大切に育てていたのね」と責められたりなんてね(笑)。でも、そんなことはなかったようで、後にTVクルーの取材が入ったときも、にこやかに対応していただいたようですよ。


−−ほっとしました(笑)。逆を返せば、そんなことは問題にならないくらい、帰国直後の梁さんが憔悴しきっていたのかもしれませんね。

門田さん "生きる屍"同然だったと思います。梁さんは、並の日本人よりも日本への忠誠心が強かった人で、特攻隊となって国のために散るという決意を持っていたわけです。ところが、自分の元へ赤紙が届くことはなく敗戦となり、愛する康子さんはこの世を去ってしまった。もう日本にいる意味はない。かといって、台湾に帰ったところで、何の生き甲斐も見いだせなかったのはないでしょうか。梁さんは、結婚して少し生活が落ち着いた後、康子さんが弾いてくれた「乙女の祈り」を、何かに憑かれたかのように練習するんです。ピアノの手ほどきを専門的に受けたわけではないから、弾けるのは「乙女の祈り」1曲だけ。しかし、その1曲は、80歳を越えた今でも弾けるほどに叩き込んでいる。それほどまでに、康子さんや勤労動員時代の思い出は、梁さん自身のアイデンティティともいえる大事なものだったのだと思います。


門田隆将さん−−思わず、「自分の今後の人生で、これほど何かを深く思うことがあるだろうか?」と考えてしまいました。

門田さん 康子さんにしろ、梁さんにしろ、当時の人は人間関係が濃密ですよね。やはり、生と死の狭間で生きた若者たち特有のものだろうと思います。現代は、ここで別れると最期だ、という「覚悟」がないじゃないですか。実際、そういう情勢でもないですし。でも、この時代の別れとは「今生の別れ」を意味していましたから、ひとつひとつの人間関係が濃い。手すら握らないけれど、濃密な心の通い合いがあるんですよね。だからこそ、戦後に大ヒットする「惜別の歌」も、康子さんたちが働いていた陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)から生まれたんだと思います。作者の藤江英輔さんは、別の区隊に所属されていたそうで、康子さんのことは知りませんでしたが、同じ中大予科から勤労動員された梁さんは親友だったそうです。今回、「惜別の歌」を作った背景をお聞きして初めて、召集令状の実状がわかりましたね。造兵廠内で召集令状の配達役を務めていた藤江さんによると、あれは生年月日順などではなく、本当にアットランダムに届いていたようですね。「生年月日順なら、一浪している自分に真っ先に届かなくちゃいけない」とおっしゃってましたから。役所ごとに届いていたようですが、空襲で家が焼けたり疎開していたりで、現在の居場所がわからない者が多かった。そこで、大学や勤労動員されている造兵廠宛てに届き、そこから本人に渡されるという仕組みだったようです。藤江さんは、学友にも「おめでとう」と言って赤紙を渡さなければならない。でも、当時は、「召集令状=死」ですから、日頃"お国のため"と言っている若者でも、受け取ると顔色が変わるわけです。そこで、藤江さんは、島崎藤村の詩の「かなしむなかれ わがあねよ」を「わがともよ」に変えてメロディをつけ、友との別れの際に歌うようになったそうです。戦後、造兵廠から故郷に帰っていった動員学徒たちは、またそこで歌い、全国へと広まっていく。こうして「惜別の歌」は大ヒットを遂げるわけです。実際、この造兵廠には、中大予科の学生、約120名が勤労動員されていたのですが、そのうちおよそ30名が出征していったそうです。いったん召集令状を受け取ると、本人に残された時間は少なく、翌日には造兵廠からいなくなります。だからこそ、梁さんは康子さんに「髪の毛が欲しい」と言ったんですね。仲間がどんどん出征するなかで、自分も明日赤紙が届いたら、あさってにはいなくなってしまう。だから、今もらわないと、という切実な思いだったんです。いざ入隊したら、特攻隊に志願して死ぬつもりでいたわけですしね。ところが、康子さんはそんな梁さんに対して、「特攻に行く人は誇りです。でも、それを強いるのは国の恥だと思います」と言います。「特攻はあくまで"目的"であって、"手段"であってはならないと思うの」と説かれ、梁さんはビックリするわけですよ。当時はみんな軍国少年、軍国少女ですからね。もちろん、康子さんも軍国少女ですが、ただの軍国少女じゃない。


−−祖国愛は非常に強いのですが、物事の見方が一方的ではないというか。

門田さん そうなんです。痛い足を引きずってでも工場で働きたい、休むことが辛くて仕方ないというくらい、康子さんは国のために役立ちたいという意識は強かったんですよ。ただ、それと同時に、人間の命に対する愛惜の念も非常に強かった。日記を読んでいても、家族愛や人間の命に対する愛惜の情を持った感受性の非常に強い女性だということをしみじみ感じました。鬼畜米英と唱えて一生懸命である一方、特攻隊を「誇りだけれど、それを強いるのは国の恥」だとする目も持っている。国と人とをきっちり分けていますよね。さらに、60年以上前の当時の情景を、現代の私たちの目にもありありと浮かぶように描ける、鋭い描写力も持っている。類い稀な女性だったと思います。


−−言ってもしょうがないですが、やっぱり「康子さんが生きていたら……」と思ってしまいます。

門田さん なんといっても学校の成績もダントツの首席でしたからね。とはいえ、彼女は、東京女子高等師範学校の附属専攻科という、どちらかと言えばここを卒業してお嫁さんに行くという科にいたんですね。お父さんの仙吉氏は内務官僚でしたし、康子さんのお姉さんも内務官僚に嫁いでいたので、康子さんにも早くいい人と結婚させて、きちんとした家庭を持たせるつもりだったと思います。康子さん自身もそのつもりでいたと思いますね。


−−康子さんなら、終戦や戦後のモラルの乱れをどのように見たでしょうね。

門田さん 彼女は物事の本質を見る人だと思うので、混沌としか言いようがない戦後の価値観の乱れのなかでも、それに揺られることはなかったんじゃないでしょうか。日記からも、軸がぶれない人だということがわかるので、世の流れをじっくりと見据えて、"自分自身"を貫いたのではないでしょうか。「惜別の歌」の作者の藤江さんもそんな方でした。その藤江さんに、「これほど当時の若者のことを正確に書いた本はかつてない。ありがとうございました」と言葉をかけていただき、非常に光栄でした。まあ、当事者の手記をもとにしているので、正確なのは当然なんですけどね(笑)。


−−戦争のむごさも伝わるんですが、それよりも康子さんの明るさの方が強く印象に残りますよね。明るい未来を信じたり、自分が望む未来を叶えるために行動したりする康子さんが、とても潔くて清々しいというか。

門田さん 確かに、彼女は人生に対してとても積極的ですよね。決して甘えとか癒しのなかに逃げ込まない。日本人としての強さ、誇りと気高さを感じます。戦後、右と言ったら右に、左と言ったら左に一斉になびいてしまうような、奇妙な状況が続いていますが、それでも曲がりなりにこれほどの繁栄を日本が遂げたのは、一部とはいえ、康子さんのような毅然とした日本人がいて、地に足をつけて踏ん張ってきたからだと思うんですね。そんな誇りと気高さこそ、日本人の根本なんだということを、この本を通して感じてもらえれば嬉しいです。


−−本日はありがとうございました。




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