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SMAPコラム「Map of SMAP」

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TV:CX系ドラマ『僕の生きる道』(2003年1月〜)主題歌収録のシングル。
2015.11.10更新

木村拓哉は小さな渦を派生する──『アイムホーム』について


ブラック&ホワイト
 だれもがそうなわけではないが、ある決定的な存在感を有した俳優は、あるとき、その出演作自体が、その俳優についての「論」になる場合がある。俳優自身の意志とは関係なく、もしかしたら、映像の作り手の意志とも無関係に、「論」は「論」として提示されてしまう。たとえば、ビートたけしや浅野忠信といったひとびとは、幾つかの出演作それ自体が「ビートたけし論」であり「浅野忠信論」だったりするわけだが、木村拓哉にもそうした事態が起きていることに、わたしたち観客は無頓着であってはいけないと強く思う。
 たとえば、先日、その製作が伝えられた映画『無限の住人』。沙村広明の同名漫画を三池崇史監督が映画化するというこの木村の最新主演作は、不老不死の肉体を与えられた男の姿を描く異色時代劇なわけだが、タイトル通り「無限」の世界の「住人」にならざるをえない主人公像は、パブリックな意味での「木村拓哉」そのひとに相当するのではないか。以前、別なところで書いたことがあるが、木村拓哉は一貫して「木村拓哉であること」を求められつづけている。わたしたち大衆が望む「木村拓哉」像はほとんど時空を超えていると言っても過言ではないほど「わがまま」なものだが、彼は結果的に、わたしたちの凄まじいばかりの欲望に応えつづけているし、だからこそ、彼は今日も第一線で疾走している。そう、たとえば、木村拓哉のパブリックな人生を「無限の住人」と捉えることは充分可能だし、わたしたちはもっとそのことを自覚するべきではないかとも思う。
 さて、本題に移ろう。『アイムホーム』がソフト化された。『アイムホーム』はある種の「木村拓哉論」である。しかも、それは他局制作による『安堂ロイド』からの流れであることは特筆に値する。前述した通り、これはスタッフの意志に関係なく、わたしたち視聴者がどう捉えるかという問題であり、放映時ならともかく、こうして商品化されたいま、物語の展開などを超えた次元で、この作品をどのように見つめるかは、本作に出逢ってしまった者の、ほとんど責務であると断言してもよいかもしれない。
 『安堂ロイド』でも『アイムホーム』でも、木村拓哉はひとりでふたりのキャラクターを演じている。前者では学者の「似姿」としてのアンドロイドが、後者では記憶喪失によって失われた「過去」のアイデンティティが、主人公と二重写しになるように描かれた。この2作を見つめるとき、わたしたちは『HERO』の久利生公平を眺めるようにはいられないはずであり、そのことがあることを物語っている。
 二重性。もともと、演技には「演じられる」客体と、「演じる」主体があるわけで、厳密に言えば、どのような役にしろ、二重性は存在する。ただ、俗に言う「ひとり二役」は、役が「演じられている」ことと、役を「演じている」こととの、相関関係を、観る者に視覚的に、つまり具体的に訴えかけてくる。
 『安堂ロイド』の場合は、人間とアンドロイドという、設定上の明確な違いが存在していた。だが、『アイムホーム』は正確に言えば「ひとり二役」ではなく、「同一人物」である。「過去」と「現在」に引き裂かれた人間を、木村拓哉は演じている。一部ファンのあいだでは「ブラック久」「ホワイト久」とも形容された、この「同一人物」としてのふたりは対照的な性格ではあるが、最終盤で両者が対面することも含め、互いに補完しあう存在であることは疑いようもないだろう。
 別人のようではあるが、別人ではない。人格が分裂しているわけではなく、「かつて」そうだった主人公と、「いま」そうである主人公とが、ここでは演じられている。
 木村拓哉は、「ブラック」を「ブラック」として、あるいは「ホワイト」を「ホワイト」として表現する演じ手ではない。そのどこかに「グレー」、つまり、「ブラック」と「ホワイト」の混合、しかも、完全には混じり合ってはいない状態を、「小さな渦」として派生させている。たとえば、珈琲にミルクが数滴たれたときの様子を想起していただきたいが、スプーンでかき混ぜる前の、ミルクが珈琲を浸蝕しかけている状態が、そこにはある。
 つまり、「ブラック久」を体現しているときも、そのどこかに、「ホワイト」のミルクが数滴たれている。「ホワイト久」もそうで、どこかに「ブラック」な粒は落とされている。
 半醒半睡と言えばいいだろうか。「ブラック」のなかにある「ホワイト」も、「ホワイト」のなかにある「ブラック」も、目覚めつつあるが、いまだ夢うつつで、自覚というものがない。だからこそ、それらは混じり合うことがないし、「小さな渦」たりえている。
 木村拓哉は、「小さな渦」をこれ見よがしに描写する俳優ではない。だからこそ、その細部をわたしたちは吟味し、彼が体現しているものの精度を高めていかなければならない。受け身であってはいけない。自ら、能動的に、木村拓哉の演技を掴み取っていく必要がある。
 まずは、出番の少ない「ブラック久」の姿から「ホワイト」の断片を見つけることから始めてみよう。ここでの「ホワイト」を、無意識の顕在化と見るならば、木村拓哉の演技はより繊細なものとして味わうことが可能になる。彼の表現は、観る者の解釈によって、カフェオレにも、カフェラテにも、カプチーノにも、マキアートにも、変幻するであろう。

相田冬二

※このコラムは、楽天ブックスのオリジナル企画です。
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アイムホーム
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