TOP >「Map of Smap」TOP > vol.56

SMAPコラム「Map of SMAP」

楽天ブックスが、SMAPやSMAPメンバーの旬な情報を、コラム形式でお届け!
Infomation
 世界に一つだけの花
MUSIC
Clip! Smap! コンプリートシングルス【Blu-ray】
ミュージックビデオを大幅に追加収録。
Infomation
 世界に一つだけの花
MUSIC
Clip! Smap! コンプリートシングルス
収録曲:シングル55作品の両A面曲を含む全63曲の映像を収録予定
Infomation
 世界に一つだけの花
MUSIC
世界に一つだけの花
TV:CX系ドラマ『僕の生きる道』(2003年1月〜)主題歌収録のシングル。
2014.8.12更新

魂は器に盛ることができない──木村拓哉『織田信長』を凝視して。


冒頭145秒の衝撃
 冒頭の145秒。メインタイトルが出るまでのあいだですが、このわずかな時間に木村拓哉という演じ手の凄さが剥き出しになっていて、驚かされます。
 以前インタビューしたときに、木村さん自身もおっしゃっていましたが、ある人物の初登場シーンは非常に重要です。それはドラマであっても映画であっても変わりません。どのような人物像を、観る者に植えつけることができるか。わたしたちの日常を考えてみればわかることだと思いますが、だれかと出逢ったときの第一印象こそが、その後の「お付き合い」の基点になります。
 つまり、この145秒とどう向き合うかで、ドラマ『織田信長』の相貌は変わってくるのです。わたしが、この145秒のなかで指摘したいのは、次の5つの点です。
 ①最初に「若って言うな!」と言うとき。
 ②相手が強いから闘う、という意志を仲間に伝えるとき。
 ③ふとしたはずみで唇を舐めるとき。
 ④もう一度「若って言うな!!」と言うとき。
 ⑤相手の目を見つめながら、殴られるとき。
 以上です。このスペシャルドラマは、若き日の織田信長を描くもので、この冒頭では悪童としての荒くれ喧嘩模様が、不良少年たちの快活な諍いのように見つめられていますが、ここで木村さんは、あくまでも活劇のなかで、信長というひとの人物像を、木村さん独自の方法で明るみにしています。
 ①信長は「若殿」なわけです。だから、仲間たちからも「若」という呼称で慕われているんですね。しかし、信長は「若」とは呼ばれたくない。なぜなら、「若」という立ち位置は、まったく「個人的ではない」から。英語で言えば「Jr.」ということになるかと思います。二代目とか三代目とか、つまり継承を義務づけられた存在としての象徴=サインなんですね、「若」っていうのは。信長は別に、織田家を継ぐことを拒否しているわけではありません。長男として、それは当たり前のことだと考えています。ですから「若」という呼称への拒否感は、よくあるお坊ちゃんのわがままではなく、「俺を俺として認識してほしい」という明確な欲望のあらわれなんですね。「俺は若ではない。信長なんだ」という至極当然な主張を、木村さんは心の第一声ですがすがしいまでに響きわたらせます。あ、このひとは「自分が自分以外の何者でもない」ということにかんして、まったく迷いがないひとなんだな、ということを、この第一声は教えてくれます。

考えるな感じろ
 ②は、言ってみれば説明台詞なんですが、かなりテンポの速いショートカット気味の呼吸によって、ことばの「意味」を乗り越えて、キャラクターに還元させています。ことばは「意味」ではない──木村さんは『ロングバケーション』で、そのような演技的達成を果たしています。ドラマであれ、映画であれ、物語に説明台詞はつきものです。俳優である以上、そこを避けて通るわけにはいきません。役者は、単に「役を演じるひと」と捉えられがちですが、役を演じるだけでは演技は成立しません。逆に言えば、役を演じることだけに没頭しているひとは、下手くそなひとです。木村さんの△砲ける発声は、演じ手は説明台詞をどのようにクリアしていかなければいけないかの、実践的一例と捉えていいと思います。
 あくまでも、ことばを「意味」として捉えようとする古色蒼然としたわたしたちの耳を、生まれ変わらせる力が、木村さんの声にはあります。ことばは「音」なのだと。そのキャラクターの魂が発している「サウンド」なのだということを、木村さんは体現します。考えるな、感じろ。というブルース・リーの有名なことばがありますが、木村さんの演技は、思考が感覚に敗れ去ることの快感だけで出来上がっていると表現してもいいかもしれません。
 端的に言えば、木村さんの発声は、わたしたちの耳を感覚的にするんですね。ことばを聴き取って文字に翻訳するのではなく、ことばをそのまま受けとって、「相手を感じることができる」状態になる。
 ことばを意味で捉えているかぎり、信長は強い相手に立ち向かっていくひとなんだな、という思考から一歩も出ることはできないでしょう。もちろん、それも信長の一面ではあるでしょう。しかし、ことばは必ずしも「意味」に従属しているわけではないという真実をキャッチできると、信長というキャラクターの奥行きはグッとひろがります。木村さんがここでおこなっているのは、その可能性に向けた発声なんですね。信長というひとを捉えるための耳を「開発している」と言ってもいいと思います。木村さんの芝居から否応無く漂う臨場感は、つまり彼が常に「工事中」(work in progress)のただなかにいるからだと考えられます。そして、何よりも重要なことは、彼がおこなっている「工事」は、キャラクター造型ではなく、わたしたち観客に対してのものだということです。
 つまり、木村拓哉さんは、わたしたちの感覚を「工事」しているのです。

演じるという「工事」
 ③木村さんの非凡な点は、演じる上で、外観(外面)を、ほとんど構築していないことです。つまり、バリアを張らない。ここではヒゲを生やしていますが、それが決して威嚇に映りません。
 わたしたち観客は多くの場合、演技にも「意味」を見出そうとします。つまり、論理的に解釈しようとする。美点に理由をつけたがるんです。演じ手が減量したとか、特殊なしゃべり方をマスターしたとか、そういう外観(外面)の構築に目を奪われがちです。しかし、それではコスプレと変わりません。演技とはコスプレではない。そして、美にほんとうは理由などないのです。
 唇を舐めるのは、ご存知の方も多いと思いますが、木村さん自身のクセです。バラエティ番組などでよく目にする、彼のチャームです。信長はここで一瞬だけ、唇を舐めるんですね。そのとき、織田信長でもない、木村拓哉でもない、もうひとりのだれかが出現します。木村さんの素が出てしまった、という感触では全然ない。もし、そうであれば、編集されているはずです。この瞬間が残されているということは、監督をはじめとする映像の作り手たちが、織田信長に成りきった木村拓哉、という枠には到底おさまらない表現に惹きつけられたからに他なりません。わたしは、これを木村拓哉と織田信長の「相互乗り入れ」状態であると考えています。
 バリアを張り巡らした、外観(外面)におもねった芝居は、コスプレどころか、着ぐるみに等しい。人間は着ぐるみではありません。木村さんはここできわめて人間的なファクターを信長に与えています。木村さんが唇を舐めることで立ち現れる感覚は、かつて歴史上に存在した(つまり死んでしまった)織田信長の肖像ではなく、いま、この映像のなかで生きている(つまり呼吸している)織田信長の鼓動をキャッチすることになります。
 バリアを張らないからこそ、魂は伝わるのです。「意味」を超えて。
 ④では、仲間との距離感があらわになります。①よりも大きな声ですが、むしろ仲間に対する情愛が感じられます。①よりは平易な表現ですが、ここでも、ことばはその「意味」どおりに受けとるものではない、ということが実証されています。ここで発せられている否定形は、仲間を肯定するために用いられているわけです。
 ⑤は、解説するまでもないと思います。木村さんがクリエイトしている信長というひとは、とにかく相手と「1対1」になろうとする。自分が殴られるとわかっているときでも、相手の目をしっかり見る。これは,箸弔覆ることですが、一貫して「個」であろうとする意志のあらわれですね。
 演技というものは、複合的に構成されています。脚本や映像だけでは、芝居は成立しない。木村さんが、精神と肉体が織り成す「生身」を駆使した結果、わずか145秒にもこれだけの要素が詰まっているんですね。
 劇中で、小林稔侍さんが、信長を評して「お前らの器におさまらないだけだ」と信長をよく思わないひとびとに向かって啖呵をきるのですが、このことばは木村拓哉さんの演技にも当てはまると思います。
 多くの演技者は、魂を器に盛ろうとします。器に程よく盛られた魂が、上手い芝居だと評価されたり、器からはみ出した魂が、迫力のある演技だと褒められたりもしますが、木村さんは最初から、器というものを想定していないように思います。魂は器に盛ることができない。器に盛らず、魂を魂のまま贈り届けるために、彼は「工事」をつづけています。
 1998年3月。それは、木村拓哉さんが25歳のときのことでした。



文:相田☆冬二

※このコラムは、楽天ブックスのオリジナル企画です。
前週のコラムを読む
翌週のコラムを読む
織田信長
織田信長

1998年に放送された、木村拓哉、自身初となる本格的な時代劇ドラマが待望のDVD/Blu-ray化!

「Map of Smap」バックナンバー

2017.1.5更新
2016.12.21更新
「Map of SMAP」TOPにもどる