TOP >「Map of Smap」TOP > vol.57

SMAPコラム「Map of SMAP」

楽天ブックスが、SMAPやSMAPメンバーの旬な情報を、コラム形式でお届け!
Infomation
 世界に一つだけの花
MUSIC
Clip! Smap! コンプリートシングルス【Blu-ray】
ミュージックビデオを大幅に追加収録。
Infomation
 世界に一つだけの花
MUSIC
Clip! Smap! コンプリートシングルス
収録曲:シングル55作品の両A面曲を含む全63曲の映像を収録予定
Infomation
 世界に一つだけの花
MUSIC
世界に一つだけの花
TV:CX系ドラマ『僕の生きる道』(2003年1月〜)主題歌収録のシングル。
2014.8.19更新

草剛はリバーシブルである──『ほんとにあった怖い話』を観て。


感覚/身体 と 主観/客観
 稲垣吾郎さんがナビゲーターを務める『ほんとにあった怖い話』。その『15周年スペシャル』の一編、「犯人は誰だ」(演出:鶴田法男)に草剛さんが主演されました。2時間10分の枠で7本立てですから、とても短い映像作品ですが、草さんの力量を存分に堪能できました。
 草さんは、身体(しんたい)で演じるということを本能的に理解している演じ手だと思います。多くの観客が誤解していますが、演技は感情だけで演じるものではないんですね。感情ということばを分解すると、感覚と情愛にわかれますが、ほとんどのひとが、感情と言うとき、情だけを想定しています。感情表現が豊か、というとき、情のこもった物言いをイメージしていませんか? 違うんです。もちろん、情もなければいけませんが、感情表現において大切なのは、情愛ではなく感覚のほうです。
 そして、感情よりももっと大事なのは、身体です。この身体は、感覚の先にあるもの、もっと言ってしまえば、感覚を「あらわす」もの。つまり、大きく言えば、演技は情→感覚→身体という経路を辿っているんですね。当たり前のことですが、情も感覚も、映像には映りません。映るのは身体だけなんです。つまり、重要なのは、感情表現ではなく身体表現のほうなんですね。とりわけ、ホラーテイストの作品は、アクション作品以上に、優れた身体表現が必要になります。
 まず、身体の最たるものは、声です。草さんは、特権的な声を有しています。演技の才能とは、ある意味、声に尽きる、と言っても過言ではありません。滑舌は、訓練などである程度なんとかなりますが、声質はどうにもなりません。見目麗しく、歩行も仕草も美しいモデルさんが必ずしも演技者として大成するわけでないのはこの理由によります。逆に言えば、芸人さんやミュージシャンの方々が、役者として才能を発揮することが多いのは、既に声で表現してきたひとたちだからです。
 残酷なようですが、表現に向いている声と、表現に向いていない声があるんですね。声が綺麗かどうかということではありません。その声が、観客の想像力を喚起するかどうか。草さんの声は間違いなく、わたしたちの想像力を刺激する声です。
 声をめぐるホラー映画『降霊』(監督:黒沢清)のなかでも、草さんの声はきわめて印象的に鳴り響いていましたが、「犯人は誰だ」は、このシリーズのほとんどの短編がそうであるように、主人公のモノローグで始まり、モノローグで終わります。『ほんとにあった怖い話』は、投稿による実話ベースが前提になっていますから、ある種の「打ち明け話」めいた語りにならざるをえませんが、草さんのモノローグは決して「型」にはまることがありません。「打ち明け話」というものは、主観(自分の体験)を客観(相手に伝える)に置き換えることが必要になります。大切な友だちに、自分の恋愛を話すとき、あるいはキャンプや修学旅行などでそれこそ怖い話をするときなどを想起していただければ理解しやすいかと思いますが、いくら自分がものすごいことを経験していたとしても、それを感情的に話していたのでは、その話を聴くひとには届きません。したがって、実際のところ、どのような感情が渦巻いているとしても、感情はある程度押し殺して、叙述していくことが必要になります。つまり、主観よりも客観を優先しなければいけません。そのほうが効果的です。泣きながら、自分の悲恋を話すひとと、遂げられなかった恋を、冷静に語るひとでは、やはり後者のほうが有利です。聴くひとが加担しやすいからです。怖い話もそう。怖い顔をしながら怖い話をしているひとよりも、普通の状態で淡々とことばを積み重ねているひとのほうが、聴く側は話に集中します。
 ですから、こうしたホラーテイストの映像作品のモノローグの場合、主観は最小限に抑えて、客観を優先します。文章で言えば、日記ではなく、手紙というところでしょうか。主観がベースですが、建前という名の客観でバリアを張るわけです。これが「型」ですね。
 ところが、草さんの声は、主観なのか客観なのか、よくわからない声なんです。独り言と言えば独り言にも聞こえるし、だれかに向かって囁いていると言えば囁いているようにも思える。ただ、その「だれか」は、必ずしも、生者ではなく、死者である可能性も感じます。
 わたしなりに表現すれば、ここでの草さんのモノローグは、主観と客観とのあいだを「彷徨っている」声、ということになります。自分自身に語りかけることと、生者に語りかけること、死者に語りかけること、それらの境い目が消失して、それらの差異などどうでもよくなるような、魅惑的で、危険な声を草さんは有しています。
 これが、観客の想像力を牽引する声なわけです。

うしろ/まえ と 日常/非日常
 さて、次に、具体的な身体の動きを見てみましょう。「犯人は誰だ」にかぎらず、多くの映像怪談は、主人公が「振り返る」ことが重視されます。背後に誰かいる、その存在を察知したとき、身体がどのように反応するか。これが、ひとつの大きな見せ場になります。
 これは、霊感の強い女性部下(北乃きいさん)を持った上司(草さん)の体験談なわけですが、この部下が、いたるところに出没し、自分が気がつかないうちにそばにいた、驚く、というリアクション芝居がいくつかあります。
 「振り返る」という行為は、演技のなかでもとても難しいもので、この名手のひとりに宮沢りえさんがいますが、意識よりも無意識を優先することができなければ、「振り返る」という行為は実現しません。下手な演技の最たるものは、相手の台詞を「待っている」状態ですが、「振り返る」ことも、怪奇現象を「待っている」状態では、話になりません。段取りと、タイミングのことだけで頭がいっぱいになっていると、反射的な動きは生まれません。意識だけに凝り固まったまま「振り返る」と、それがどんなに迅速でも、「よっこらしょ」という予定調和が見えてしまいます。
 草さんは、身体能力が非常に高いので、ひとは、無意識に「振り返る」のだということを完璧に体現しています。単に反射神経が発達しているだけではなく、「その先」へと観る者の想像力を連れ去っていくのが、草さんの芝居です。
 意識より先に身体が反応する。それは言ってみれば、第六感と呼ばれるような感覚に衝き動かされてのことなのですが、この瞬時の衝動を、決して特別なことではなく、ごくごく当たり前のこととして、日常に組み込みながら、表現しているのが草さんの非凡な点です。
 だれかの存在、あるいは、だれかの視線を感じて「振り返る」ことは決して特別なことではない、ということを草さんはここで「あらわしている」のですが、その結果、どのようなことが起きるかと言えば、「振り返る」ことで、本来「うしろ」だったものは「まえ」になる、という事実をあからさまにしているんですね。これは、彼のリアクションをつぶさに追っていくとわかると思います。
 人間の視界は限られています。つまり、人間は基本的に「まえ」だけを向いて生きている。ある意味、「まえ」にあって、認識できる世界だけがすべてなんです。これを意識の世界と呼んでもいいかもしれません。しかし、あるとき、無意識が「うしろ」にも世界があることを察知する。そうして、やがて「振り返る」ことになるわけですが、「振り返る」ことで、「うしろ」だった世界は「まえ」になる。すなわち、無意識は意識に変化するんです。逆にいえば、それまで「まえ」にあった世界は、「うしろ」の世界になるんですね。草さんがここで見せている、呆気ないほどの「振り返り」は、「うしろ」が「まえ」になり、無意識が意識になる、その真実をアクションによって伝えています。
 これは「犯人は誰だ」の主人公の性格にもかかわることですが、ここでの草さんの芝居の「立ち直り」は非常に速いんですね。
 たとえば、まるでストーカーのように尾行していた部下に気づくや否や、「メシでも喰うか」と誘う。もちろん、驚いたり、おののいたりという、当然の反応はあるはずなんですが、そこは強調せず、むしろ、非日常を日常に還元していくような素振りを際立たせる。これは、この主人公が冷静だとか、図太いというよりは、実はわたしたちも、こうした局面においては、何事もなかったかのように、「次の一手」に向かうのではないか、そう感じさせてくれるんですね。立場も年齢も、部下よりは「上」だということや、男性の女性に対する虚勢ということよりは、わたしたちは生きていく上で「異常」を「常」にする、「非常」を「常」にする、つまり、イレギュラーをレギュラーにしていく、「慣らしていく」能力を持っている。そのことを、ごくごく当たり前のこととして、体現しています。
 ある種、ポジティヴなエンディングを迎える「犯人は誰だ」ですが、しかし、この物語そのものは決して「普通」の出来事ではありません。この「普通ではない」事態も、草さんはしっかり表現されています。
 主人公が馴染みの定食屋で、部下の話を聴いているところなどは、その顕著な例です。部下が話しているあいだ、ある一定のペースで、主人公はまばたきをしているのです。いや、一定ではなかったかもしれません。それは、ひどく不規則だったからもしれません。しかし、わたしは、あの光景を目撃した瞬間、得体の知れないなにかを受けとりました。
 あの上司が、部下に、なんらかのかたちで「同化した」場面に見えたのです。もちろん、これは想像にすぎません。しかし、どのようにも解釈できるからこそ、草さんの芝居は、わたしたちを惹きつけるのです。
 「おもて」と「うら」とを判別する術を、わたしたちは知っているでしょうか。それが、主観なのか客観なのか。それが、「うしろ」なのか「まえ」なのか。それが、日常なのか、非日常なのか。境界線はいつだって曖昧です。そして、客観に主観が忍び寄り、「うしろ」が「まえ」になり、非日常が日常に同化することは、決してめずらしいことでも、不思議なことでもありません。
 草剛さんは、そんな「裏っ返し」の現実を、ここで「あらわして」います。 



文:相田☆冬二

※このコラムは、楽天ブックスのオリジナル企画です。
前週のコラムを読む
翌週のコラムを読む
Mr.S
Mr.S

9月3日発売!2年ぶり21作目のオリジナル・ニューアルバム。初回&限定盤予約受付中。

「Map of Smap」バックナンバー

2017.1.5更新
2016.12.21更新
「Map of SMAP」TOPにもどる