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SMAPコラム「Map of SMAP」

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TV:CX系ドラマ『僕の生きる道』(2003年1月〜)主題歌収録のシングル。
2015.2.3更新

白石富生と3人のをんな──『銭の戦争』に見る草剛の極意。


だれかにふさわしい自分になること
 『銭の戦争』第4話の草剛に、演技というものの総体(そして正体)と極意(そして奥義)を見た。見たような気がする、ではない。確かに見た。
 最初に結論を記す。次の一文にすべてがある。これだけを記憶していただきたい。そのあとに書くことは、すべて蛇足だ。
 演技とは、だれかにふさわしい自分になることである。
 「だれか」も「なる」も、おそらく演じ手の解釈および実践によって変容するだろうが、少なくとも『銭の戦争』の草剛の場合、「だれか」は主人公、白石富生ではない。
 演じる役に「なる」ことこそ、演技だと信じて疑わないひとびとがいる。違うのだ。それは大前提であって、ことの本質はそこにはない。その役に「見える」ようにすることは役者であれば当たり前のことで、そんな次元に没頭し、「役のリアリティ」とやらを獲得=確立させることに躍起になっている様は貧相である。端的に言って、表現としてまったく豊かではない。
 「だれか」とは、己が扮するキャラクターではない。「だれか」とは共演者だ。目の前にいる「だれか」にふさわしい状態を作り出すこと。それこそが演技に他ならない。
 演技とはリアクションのこと。これは多くの優れた演じ手たちが語っていることであり、わたしも異論はない。つまり、演技は「仕掛けていくもの」ではなく、相手を「受けとめて返すもの」ではある。
 相手を感じながら芝居をする。これもよく言われることだ。芝居はひとりでするものではない。誠にその通りである。
 しかし、『銭の戦争』の草剛を見ていると、演技とは、さらに「その先」に踏み出す一歩なのではないかと思わせられる。
 相手がどのような芝居をしているかを知覚し、それに対応していく、互いに、芝居という名の時間と空間とを組織していく。そう規定することはできるかもしれない。だが、主演俳優がすべきことは、自ら、相手に「ふさわしい」時空を作り出すことなのではないか。ピッツァで言えば、これが生地づくりだと考えられる。そこに、どんなトマトソースを塗り、どんなチーズ、あるいは具をトッピングし、どんな窯で焼き上げるかは、すべて「あとからついてくるもの」でしかないのではないか。逆に言えば、生地づくりがしっかりできているからこそ、そのような吟味も有効に作用するのではないか。
 だれかにふさわしい自分になること。
 この大命題が、『銭の戦争』においては、そして、草剛においては、何よりも女優に対しておこなわれている。第1話の時点では、まだ鈍い予感でしかなかったものが、第4話では鮮やかな確信として、わたしのなかに立ち現れた。
 彼は、女優にふさわしい自分であろうとしている。


追いかけるに足る存在の価値
 第4話で、白石富生が顔を合わせる主要女性キャラクター(回想を除く)は紺野未央(大島優子)だけだった。だが、このことが、わたしを確信に至らせた。
 この回で、白石と未央の距離は縮まり、青池梢(木村文乃)はある衝動に駆られ、青池早和子(ジュディ・オング)は意識と無意識が綯い交ぜになった状態で、この三角関係(白石と未央と梢の)をさらに加速させることになることからも明らかなように、『銭の戦争』とは、白石をめぐる3人のをんなの物語なのである。梢はもちろんのこと、「あの男は忘れなさい」という呪文を反復することで、むしろ「忘れられなくなる」ように仕向けている早和子もまた、間違いなく白石を必要としている。よりロマンティックな言い方をするならば、「追いかけている」。白石を「追いかける」という一点において、梢と早和子は「血がつながっている」のである。それは第1回のパーティ場面にも顕著だった。早和子の白石への挑発は、つまり「あなたを求めている」という宣言に他ならなかった。そして、そんな早和子の振る舞いに感化されたように、梢もまた白石に対する挑発をおこなうようになる。
 白石は、梢の婚約者ではなくなった。だが、そのことによって、梢にとって白石の「価値」は生まれた。「価値」は、「追いかける」に足る存在ということである。そう、白石の不在が、梢の欲望を顕在化し、挑発や、白石との対峙を招く。そして、早和子の呪文がそれに拍車をかけ、さらに未央の存在が嫉妬という名の油を、梢の炎に注ぐことになる。
 『独身貴族』の際の、デヴィ夫人との芝居空間でも証明されていた通り、草剛には、相手の演技の経験の有る無しを無効化する力がある。今回のジュディ・オングは演技においても大変なキャリアの持ち主だが、草が年上の女性を相手にしたとき、発揮する独創性にはやはり目を見張るものがある。女優というものに対して、どのように接すればいいのかを本能的に理解しているのだろう。デヴィ夫人の演技と、ジュディ・オングの演技とが、等価のものとして画面におさまっているのは、草剛の力によるものである。これは見ればわかることなので説明はしない。
 第4回ではなかったものの、木村文乃との共演シーンは既に大きな成果をあげている。わたしたちがときに、梢に加担しながら物語の成り行きを見守りたくなる要因は、梢の欲望を正当化する白石の存在、ならびに、そこに説得力をもたせる草の演技にある。それは、白石を「追いかけたくなる」ほど魅力的な人物として体現することではない。梢が(そして、早和子が)「追いかける」行為に「ふさわしい」人物として、目の前に居ることである。より正確に言うならば、梢と向き合うときの白石は、梢が「追いかけやすい」状態を作り出している。つまり、草剛は、木村文乃が「追いかける」演技を成立させやすい場を、創造しているのである。


共演者と役と視聴者を同化させる
 その役に「なる」ことは基本的に演じ手本人の仕事ではある。だが、「なりやすい」状況というものが存在していて、草剛はそうした「環境」を作り出している。第4回ではっきりしたのは、草は大島優子が、役に「なりやすい」時空を構築していたということだった。
 声の出し方、間の取り方、相手の話を聞いているときの顔などなど、具体例をあげれば、キリがないのだが、未央にしか見せていない白石をその都度提示しながら、そのことによって、大島が未央に近づく契機を与えていた。白石と未央が近づいたというよりも、草と大島が近づいたというよりも、あれは、やはり大島が未央に近づいた瞬間だった。
 白石と未央の距離感は、白石と梢、あるいは、白石と早和子ほど、単純ではない。それは、梢が指摘した通り、未央が「いざとなると怖じ気づく女」だからだ。事態には流されやすいくせに、肝心なときには頑なになる。そして、それを良心などと呼んでしまう。言ってみれば、これは非常に厄介なタイプの人間であり、しかし、あなたやわたしの周りにもよくいる「だれか」であり、このフィクションのなかでもっとも現実味のあるキャラクターと言えるだろう。
 大雑把にくくれば、白石と梢、早和子は「同族」なのだ。未央は「他者」である。白石たちの「世界」に迷い込んでしまった存在だ。
 草は第4話で、いきなり芝居のガードを下げた。え? 白石って、こんな表情を見せるの? という驚きと、そうか、未央には見せるんだ、見せる時間が訪れたのだという、人物の「多面性」と関係性の「経過」とを同時におこなっていた。白石らしからぬカジュアルな振る舞いを目の当たりにしたとき、わたしたちは、いかに白石を型にはめて眺めていたのかを知ることになる。そして、その瞬間、未央に同化するのだ。
 大島優子は、草剛の芝居の変容に導かれるように、未央に眠っていた可能性の芽を見出している。それこそが、大島が未央に近づいたということに他ならない。
 紺野未央にふさわしい白石富生になること。
 第4話の草剛は、ひたむきにそれをおこなっていた。
 大島優子が彼(白石=草)に感応しなければ、視聴者が感応するはずはないからである。
 わたしたちは、ときに未央として、ときに梢として、ときに早和子として、白石富生と3人のをんなの物語に、これからさらに深く立ち会うことになる。



相田“Mr.M”冬二

※このコラムは、楽天ブックスのオリジナル企画です。
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草剛が金と愛の価値を問う!毎週水曜22:00〜フジテレビ系列局にて放送

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