2023-11-22
『カーテンコール』配信! 巨匠・筒井康隆「最後の作品集」は極上の掌篇小説25篇。
【書評】「「レイト・ワーク」の先までも」(小川哲)
『カーテンコール』は、新潮社の雑誌『波』に掲載された作品を中心に、『文學界』や『新潮』などの文芸誌に2021年から2023年までに発表した掌編二十五作を集めた、正真正銘のオリジナル作品集である。先日八十九歳の誕生日を迎えた筒井康隆は、本作を「最後の作品集」と銘打っている。「最後の長編」とされた『モナドの領域』、短編集『ジャックポット』、そして本書『カーテンコール』によって、筒井康隆の「仕事」がひとまず完結する。
かつて好きだった女性の幸せを願い、自ら身を引いた男の話である一作目の「深夜便」から、母の遺品をめぐるドタバタを描く「花魁櫛」、白蛇と美しい少女をめぐる寓話「白蛇姫」と、冒頭から死の気配が濃厚に漂う。死別した息子と夢の中で再会する感動作「川のほとり」、里に降りてきた羆との攻防を描く「羆」、騒がしい老人ホームを描いた「夢工房」など、多くの作品で「老い」と「死」を起点に人間(=現存在)の有り様を描く手法は、きわめてハイデガー的であるとも言える。
とはいえ、すべての作品に通底するのは、そういった「死」の気配をどこか軽く、シニカルに笑い飛ばす、人を食ったようなユーモアだ。「プレイバック」では、病床の語り手のもとに、過去の筒井康隆作品の主人公たちが現れ、現代でも読み継がれている彼ら特有の悩みを吐露したり、他愛もない昔話をしたりする、「レイト・ワーク」の一種のパロディとも言える作品だ。表題作「カーテンコール」では、作家筒井康隆を形成した過去の作家、俳優、映画監督たちが登場し、笑いに満ちたやりとりの中で、筒井康隆という作品の最後の挨拶をする。
『カーテンコール』はそのタイトルに相応しく、著者の集大成ともいえる作品集だ。下品な笑い、不謹慎なギャグ、ドタバタに叙情、そして不意にやってくる感動と、これまでの筒井作品に見られた作風がふんだんに詰め込まれている。しかしながら、こちらが批評的に読もうとするや否や、登場人物がおちょくられ、文学の形式がおちょくられ、明後日に飛んでいった話が明々後日に飛ぶので困ってしまう。その様はまるで、自らの「老い」でさえ一つの文学的実験に昇華し、物語の定型をあっさりと食い破っていくようである(たとえば本書に収められている「宵興行」という作品は、興行主が出演者を逃すために長広舌で時間稼ぎをする話なのだが、この作品集自体が、作家筒井康隆を逃すために、もう一人の筒井康隆が時間稼ぎをしているようにも読めてしまう)。
「レイト・ワーク」という観点からこの作品集を眺めると、「お時さん」、「お咲の人生」、「夜来香」、「横恋慕」、「文士と夜警」など、登場人物が最後に一人取り残されてしまう作品の多さに、筒井康隆という作家の孤独と寂しさを読み取ってしまう。「プレイバック」のラストでは、一足先に鬼籍に入ったかつての盟友たちが現れ、最後まで生き残ってしまった意味を問いかけてくる。今年の三月には大江健三郎が亡くなり、筒井康隆は「巨匠」と呼ぶことのできる最後の人物になってしまった。その意味を問い直すことが、本作における最後にして最大の実験と呼べるかもしれない。
評者である私も、筒井と同じ作家として、自分はいつまで創作を続けられるのだろうか、と考えることがある。私は中学生のときに父の本棚で筒井作品と出会い、自らの小遣いで初めて買った本が『農協月へ行く』という筋金入りの筒井康隆ファンで、筒井作品の数々から作家としての根本的な考え方を学んできた。
一人のファンとして、あるいは歳の離れた後輩作家として、本作を「最後の作品集」と銘打たれてしまうと悲しいのは事実だが、良くも悪くも幾度となく筒井康隆に裏切られてきた身からすると、「最後の作品集」の先で、これから何を見せてくれるのだろうか、という期待もしてしまう。
余談になるが、晩年の大江健三郎は繰り返し四国の森を描いた。筒井康隆が偏愛する哲学者ハイデガーも晩年を森で過ごし、「黒い森の哲学者」と呼ばれた。年を取るとみんな森へ行きたがるものなのか、と思っていたら、「お時さん」でやはり語り手が森を散歩していて、腹を抱えて笑ってしまった。
フランスの哲学者ルソーは晩年に書いた『孤独な散歩者の夢想』というエッセイの中で、散歩をしながらたった一人で孤独に夢想を重ねるのだが、筒井康隆の夢想はルソーと対照的に賑やかな対話、笑い、ギャグによって構成されており、一人の作家として老いることへの希望を垣間見た。
執筆者:小川哲(おがわ・さとし 作家)
出典元:『波』 2023年11月号より