2023-12-18
『絡新婦の糸―警視庁サイバー犯罪対策課―』凶器は140字、共犯者は十数万人。SNS×社会派ミステリ!
【書評】「変わりゆく悪と、変わらぬ刑事の目」(若林踏)
警察小説で描かれる悪は、時代を映す鏡である。
中山七里『絡新婦の糸―警視庁サイバー犯罪対策課―』はまさに最先端の悪と戦う刑事の姿を描いた作品だ。
サイバー犯罪対策課はインターネット上におけるデマや人権侵害、詐欺といった犯罪を取り締まるため警視庁内に設置された部署だ。
主人公の延藤慧司は同部署の捜査官としてネットで起きる犯罪に日々、目を光らせている。
本作で延藤が追うのはSNS上で〈市民調査室〉と名乗る、インフルエンサーだ。
〈市民調査室〉は街のグルメから政治に関するものまで、耳寄りな情報を発信するアカウントとして支持され、熱狂的なフォロワーを獲得していた。
閉店間際のラーメン屋を応援するツイートをバズらせるなど、当初〈市民調査室〉は良心的なインフルエンサーであった。
ところがある時を境に、〈市民調査室〉の投稿は過激なものへと変わっていき、フェイクニュースによるネットリンチを扇動するまでに至ってしまう。
延藤は上司より〈市民調査室〉を特定せよとの指示を受け、捜査に乗り出す。
サイバー犯罪については、警察庁が2022年にサイバー警察局とサイバー特別捜査隊を発足させるなど、現実でもインターネット上での犯罪対策が進んでいる状況だ。
ミステリ小説においても以前からサイバー捜査を題材にした作例は多い。
例えば藤井太洋の『ビッグデータ・コネクト』(文春文庫)では、エンジニアの誘拐事件をサイバー捜査官とハッカーのコンビが追ううちに個人情報の問題が浮き彫りになる。
海外では香港在住の陳浩基が、ネット専門の探偵が登場する『網内人』(玉田誠訳、文藝春秋)を発表している。
国内外問わず“サイバーミステリ”と呼べる小説は数多く書かれているが、本書もまたその系列に入る作品だといえる。
サイバー、と聞くと捜査官側もハイテク技術を駆使して犯罪者へと迫る場面を思い浮かべる方が多いかもしれない。
しかし、本作で延藤慧司が行う捜査方法は意外にも地道なものだ。
まずは〈市民調査室〉の投稿に書かれた現場や、炎上の標的になった被害者の元へ赴き、情報収集を行う。特に物語の前半はこの繰り返しである。
サイバーという言葉が抱かせる印象とは裏腹に、刑事が足を使って歩き回りながら事実を積み重ね、真相へと近づいていくという警察捜査小説の本道を行く作品なのだ。
それもそのはず、延藤たちが対峙しなければいけないのは〈市民調査室〉だけではない。
その存在を支持し、発信される情報に踊らされてネットでの炎上やリンチに加担してしまうフォロワーたちも捜査の行く手を阻むのだ。
これが従来の警察捜査小説と異なるところで、特定の個人を捕まえれば事件は解決とはゆかず、ウェブ空間上に漂う形なき悪意とも刑事たちは闘わなくてはいけない。
本作を読んで連想したのはジェフリー・ディーヴァーの『煽動者』(池田真紀子訳、文春文庫)だ。
同作では集団パニックを誘発する犯罪者とそれを防ぐ者たちの攻防が描かれていたが、『絡新婦の糸』もまた刑事たちの本当の敵は群衆の心理というべきだろう。
中山七里はこれまでの作品でもスリリングな展開を軸にしながら現代社会の歪みを写し取るような小説を書いてきたが、本作もその例外ではない。
〈市民調査室〉が引き起こす問題の数々には、近年日本のみならず世界を騒がせたあらゆるニュースを彷彿とさせるような光景が含まれている。
作中で最も突き刺さるのは、炎上やネットリンチに加わってしまったものが持つ無自覚な悪意だろう。
〈市民調査室〉を支持したフォロワーたちは、別に誰かを傷つけるつもりで〈市民調査室〉の投稿を拡散したり、ネット論争を仕掛ける様なことをやっているわけではない。
〈市民調査室〉が本当に世の中を良くしようと“有益な情報”を与えてくれていると信じ、その善意に自分も乗っかろうと思ってSNS上で情報の拡散に貢献しようとする。
だが、その善意がいつしか偽情報によって他人を傷つけ、貶める存在へと変貌してしまう。
本作で描かれる真の悪とは犯罪者ではなく、ふつうの人々による善意の暴走なのかもしれないと感じさせる。
その意味では、延藤の旧友であり、視点人物のひとりを務める半崎伺朗は本作のもう一人の主人公といえる。
平凡な人生を歩む彼が悪意を煽るものになっていく過程は、読者の身近にある恐怖を的確に描いている。
物語はスピーディに進んでいき、〈市民調査室〉の捜査は思わぬ展開を見せていく。
途中で延藤が迎える危機は、まさに現代の悪と戦うものが立ち向かわなければいけない危険であり、宿命であると感じた。
その意味で、やはり本作は社会の最先端を活写する警察捜査小説なのだ。
執筆者:若林踏(わかばやし・ふみ ミステリ書評家)
出典元:『波』 2023年12月号より転載