2024-09-20
『ショートケーキは背中から』 フードエッセイスト、平野紗季子のエッセイ集が絶賛配信中!
【書評】からだに起きた興奮ごと記録する(くどうれいん)
平野紗季子はフォークを握ってずっと喋っている。食べものに対して永遠に興奮している。『生まれた時からアルデンテ』を読んだ十年前、わたしは大学生で、毎日ちいさなキッチンで自炊をすることが楽しみだった。衝撃だった。なんだこいつ、と、素直に思った。なんだこいつ、ずっと食べものの話をしている。外食をたくさんしては、雨の中に立つように味に打たれ、その雨の中で踊りだすように逐一興奮しているではないか。わたしは岩手の田んぼだらけの祖母の家に暮らし、ファミリーレストランすら緊張するような環境で育った。昼の情報番組で見るお洒落な食事は自分の手で作るしかなく、その結末として自炊が好き、という状況だったから『生まれた時からアルデンテ』というタイトルだけで嫉妬した。都会だ、と思った。わたしはパスタだけはいまでも作らない。アルデンテに茹でるのが昔からなぜか全くうまくできないのだ。だから、これはやっかみだ。平野紗季子への嫉妬を憧れだったのだとようやく認めることが出来たのは、自分自身が『わたしを空腹にしないほうがいい』というエッセイ集を出したときだった。食のことを書く、その楽しさと難しさを実感して、これをやり続けるのは、よっぽど何か「とり憑かれて」いないとできないことだとこころから敬意を持った。
食べたことを、そのからだに起きた興奮ごと記録する。それは思っている以上に難しいことだ。単純に「おいしそうに書く」だけならいくらでもできるけれど、彼女のように書くには、ちゃんと雷に打たれなければいけない。おいしいものを食べ続けても麻痺することなく感動と興奮をし続けるには根気と体力が必要で、その点「食べれば食べるほど、食べものの魅力は増すばかりなのだ」という平野紗季子は食の避雷針としてあまりにも優れている。コンビニのポテチから世界中の最先端のレストランまで、そんなに打たれたらガイコツになってしまいそうなのに、打たれるほど彼女はつやつやの笑顔なのだ。はじめて本人にお会いして食事をした日、彼女がまさに隣で何度も雷に打たれているのを見た。彼女のなかにはいくつもの「おいしい」があって、さまざまな色に光ってそのからだを貫いていた。読み進めながらこちらが(わかったわかった)と思ったとしても、平野紗季子は許してくれない。こんなもんじゃないんだこのうまさは、おい、ほんとうにわかっているか、とにこやかに肩を掴まれる。そういう迫力が常にある。「カヌレというスイートな小隕石が直撃」「たらの芽が人間だったらモテるだろうな」。なにいってんだこいつ、と反射的に思うが、平野紗季子は本当に、こころから、本気で、そう思っているのがわかるから読んでいて気持ちがいい。
平野紗季子の食エッセイを読むと「おいしそう!」と食欲を刺激されるより先に感心してしまう。いつだって目の前の食事に出会い直しているように見えるのだ。炊き合わせは和食界のパフェ。菓子からしたら私はゴジラ。そんな風に言われたらもう、たこ焼きを見るたびに(あっ、出汁のシュークリーム(c)Sakiko Hirano)と思うようになってしまう。平野紗季子の読者はおそらくもう何度も、食べものを前にして((c)Sakiko Hirano)と思っていることだろう。わたしもそうだ。読み進めると世の中にはこんなにも「おいしいものを作りたい」と思っている人がたくさんいるのだとわかって途方に暮れそうになる。彼女はその情熱をきちんと発見し、ぺしゃんこになり感動する。わたしが料理人なら本当にうれしいことだと思う。彼女を通して国内外の料理人の活躍を知ることができる一冊だ。
ここまで書いて、平野紗季子が食に対してパワフルな人間だという側面ばかり伝わってしまいそうだが、『ショートケーキは背中から』では、その情熱と共に、疲労や、癒しの食事についても書かれていて安心した。食のエッセイを書くという仕事は、ただおいしいものを食べてにこにこしているだけでは当然ない。平野紗季子の仕事は、いまのところ平野紗季子しかできないと思う。だからこそ平野紗季子としてアルデンテを保ちながら立ち続け、食べ続けるのは本当に大仕事だ。想像しただけでくらくらする。
だから、もしわたしに胃がみっつあったら、ひとつは彼女に譲りたい(ふたつだったら、あげない)。こんなに世の中の味を貪欲に知りたがる彼女にもわたしにも胃はひとつで、ランチは平等に一日一回だ、という事実にすこしだけ安心してしまうのだから、わたしはまだやっぱり、平野紗季子にちゃんと嫉妬しているのかもしれない。
執筆者:くどうれいん 作家
出典元:『波』2024年9月号より