- 平野啓一郎さん (ひらの・けいいちろう)
- 1975年愛知県生まれ。京都大学法学部卒業。大学在学中にヨーロッパ中世を舞台にした幻想譚『日蝕』で第120回芥川賞を受賞。『一月物語』、『葬送』と歴史に材をとった小説を立て続けに発表。さらに、現代を舞台に実験的な要素を盛り込んだ短編集『高瀬川』、『滴り落ちる時計たちの波紋』を発表する。2004年には、文化庁の「文化交流使」として1年間、パリに滞在。ヨーロッパ各地で精力的な講演活動を行う。文学以外の分野では、ジャズについての対談集『TALKIN'ジャズ×文学』(小川隆夫さんとの共著)、建築雑誌の責任編集(X-Knowledge HOME特別編集 No.6)も手がける。エッセイ集に『文明の憂鬱』がある。
インタビュー
- −−『顔ない裸体たち』は、平野さんのこれまでの作品と比較して、とくにストレートに現代の風俗を描いた作品ですが、書いてみようと思われたきっかけは何だったのでしょう?
- 平野さん一昨年出した『滴り落ちる時計たちの波紋』という作品集に入っている「最後の変身」で、ネットオタクの引きこもりの青年の話を書いたんですが、そのときに、もう1度このテーマで書きたいと思ったのが直接のきっかけですね。「最後の変身」は引きこもりの青年の1人称で、告白体のような文体で書いたんですが、今回は主人公を2人にして、2人の人間の間にネットがあるという話を3人称で客観的に書きたいと思いました。
- −−よくいわれるネット社会の罠といったものが題材になっていますね。
- 平野さんもちろん、ネットにはポジティブな側面もいろいろあって、ぼく自身も恩恵をこうむっていますし、ネットの発明は、グーデンベルグの印刷や鉄道の発明と並ぶ大きなものだと思っています。
そうなってくると、ネガティブな側面も当然出てきます。とくに、欲望の暴走の場所としてネットが活用されている。『顔のない裸体たち』ではそのへんのことを書きたいと思いましたね。 - −−30歳くらいのパッとしない女教師と、40歳くらいの冴えない公務員の男がこの物語の主人公です。彼らの人物造形がとてもリアルですね。
- 平野さん
この手のサイトをリサーチしていると、アダルト系の投稿サイトに画像を投稿している女性は、もちろん匿名なんですが、なぜか出身地だけは書くんですよね。
滋賀のミッキーさんとか、岡山のだれそれさんとか。それを見ていると、圧倒的に地方の人が多い。服装も、派手に遊びまわっているコとかではなくて、スーパーの衣料品売り場で買ったような地味な服を着た女性なんですよ。彼女たちが街中で裸になっていたりするんですよね。
職場では、たぶん、この人がこういうことをしているということは誰も気づいていないと思うんですよ。現実の世界で満たされていたら、顔はモザイクで隠されているとはいえ、わざわざこういうところでみんなの注目を集めたりする必要はないと思うんです。
性的に満たされることって、人間として自信になると思うんです。ところが、そういう経験がないと、投稿サイトのような場所で、ヴァーチャルな欲望を身に引き受けないと満たされない。
ですから、投稿サイトに裸像をさらしているような人たちは、どちらかというと、現実の世界で満たされていない人たちだと思うんですよ。一方で、普通といわれる生活を営む人がいて、もう一方では、そうではない人たちがいる。その違いを、突き放して書くのではなく、それは何だろうと丁寧に見たかったんですね。
男の「片原」のほうは、そういうサイトにコメントを書いているような人たちの一人ですね。書き込みを読んでいると、おのずとこういうタイプだというなということもわかってくる。そのコメントひとつにも、書いた本人が写りこんでしまっている部分があるから。
それと、最近、小学校乱入事件、動機の理解に苦しむような殺人事件が多いですが、犯罪者のタイプを見ていて、どうもこういうタイプが多いんじゃないだろうか、とぼくなりに分析した結果も反映されています。 - −−地味な女教師、吉田希美子は、ネット上で「ミッキー」という名を得て、人格を分けることで、欲望を暴走させていきますね。
- 平野さん今回のテーマのひとつは「顔」なんですね。人間はいろいろな場所で自分を使い分けていますよね。飲み会で友達と話している自分と、会社で上司と話している自分はやっぱり違う。
20世紀以降、生まれ育ちにかかわらず自由な自分でありうるんだ、ということを誰もが考えてきたわけです。ただ、顔だけは場面に応じて取り替えるというわけにはいかないんですよね。
どんなに主体が相対的に、関係性の中で変わっていくとしても、顔だけは同一性をつなぎ止めるものとして不変である。最後のくさびみたいに、主体に打ち込まれていると思うんですよね。逆にいうと、顔がなくなってしまえば、そのくさびは完全に取り除かれて、現実世界で駆使していた人格とはまったく別の人格になれるんじゃないか。現にネットの世界でそういうことが起こっているんじゃないかと思うんです。
欲望というのは、本人の意思とは無関係ですよね。そうすると、欲望に忠実にふるまうように行動する人格を作り出すことが可能なのではないかと。しかも、それが現実の生活をまったく脅かさないのであれば、その行ったり来たりの生活のなかでも、自分というものをなんとか保てるのではないかと。そういうことを、たぶん、投稿サイトの人たちはやっているんだと思うんですよね。
ただ、そういうことがいつまでも続くんだろうか。そういう生活が一生続くんだろうか、という疑問があります。
また、裸を見せるというのは過激な方法ですが、ブログなんかも同じだと思うんですよね。アメリカのブログなんかだと、けっこう、本名でブログを書くんですよね。 - −− 顔写真が載っていることもよくありますね。
- 平野さん
でも、日本のネットは、かならずハンドルネームがある。有名人をのぞけば、本名で書いている人はほとんどいない。会社で上司にこんなことを言われてムカついたとか、日常とは違う名前で書いているわけですよね。しかも、ふだんの自分は仮面をかぶった偽者で、ブログを書いている自分が本当の自分だというようなニュアンスが文章のなかにあるわけです。
問題設定としてはかなり古典的ですが、その使い分けは「見かけ」と「本質」そのものなんだと思います。問題としては、ソフィストの時代からずっとあったことですが、それがテクノロジーの出現でむしろ強化されてしまっている。
また、昔から、日記のなかにだけ書く自分、つまり「本当の自分」というのはとても孤独なものだったんですね。日記は自分しか読みませんから。ところが、ネット社会では、日記のなかの自分を通じて、他者とコミュニケーションが取れるようになっている。
リアルな世界で他者から「この人はこういう人間だ」という、その人像というものがあるとしたら、ネットの世界でもそれに釣りあうだけの多くの他者に認めてもらわないと、バランスが取れないと思うんです。
そうすると、現実の世界で満たされていない人間は、「ネットの世界の自分こそ本当の自分なんだ」と主張し始める。
- −−ネット社会に対する平野さんの考察はたいへん興味深いですね。しかも、考察された内容を小説というかたちで書かれている。なぜ、小説で書いてみようと思われたのでしょうか。
- 平野さんいままで、表現者は、表現に関わる資本を独占していた。たとえば、本を出そうにもお金がかかるから、個人になかなかできなかった。それが、ウェブ時代になって、誰でも自分で言いたいことを発表できるようになった。それ自体はすごくいいことだと思うんですよ。
昔は、「こんなことを考えている」みたいなことは、一般の1個人が思ってはいても、発表できなかった。だからこそ、作家がそれを代弁すると「よくぞ言ってくれた」となった。蒲団の匂いをかいだりすることも、作家が書いてくれるまでは、みんななんとなく思ってはいても、言えなかったんですね。 ところが、ネット時代になると、それがみんなに書けちゃう。お互いに書いて読んで「あ〜、そういうことってあるある」。人間ってこんなもんだ、って了解しあえる空間がネットにあるんですね。
ただ、一方で、そういうことは、ネットの世界のコードで書かれていて、リアルな世界に引っ張り出されてこないんですね。そういうのを見たくない人は「そういうことはネットの世界での特殊なことだ」っていうことで、見ようとしないんですね。
いま、誰でも表現できるこの時代に、作家がわざわざ紙媒体に書く意味があるとすれば、ネットの世界で起こっていることをリアルな世界に引っ張り出してくることだと思いますね。
『顔のない裸体たち』の内容だけを取ったら、もっとポップな文体で、笑えるような感じで書いたほうが書きやすいのかもしれないけれど、そうすると、年配の方にとっては、若い人の側にだけある変な世界、ということになっちゃうと思うんですよね。
そういう意味では、ぼくは『顔のない裸体たち』で、もっとも端正な、いわゆる日本語といわれるものの内側から、こういうものを浸透させていくことで、誰にでも関係あることなんだということを示したかった。 - −−平野さん独特の厳格な文体でネットがらみの事件を描くことで、その文体自体が、批評性を持つ。
- 平野さんネットの言葉って、ぼく自身が生まれてから1回も使ったことがない言葉がいっぱいあって、書くのはしんどかったんですが(笑)、あえてそういう表現を使うべきだと思った。
単に読んでいて不快に思うのと、そのコトバを自分が発する嫌さというのはまたちょっと違うと思うんですよね。小説を書くときに、すごく自分のなかで抵抗があって、その「嫌」という感じはなんだろうと考えるのが、ネットの世界について考えるうえで非常に意味があった。 - −−平野さんというとやはり『日蝕』や『葬送』など歴史に材を取った作品や、実験的な短編が印象深いのですが、今回の作品は時代風俗を扱っていて読みやすい作品ですね。
- 平野さん実際のところ、ぼくは、わりとなんにでも関心があって、ボルヘスを使って「バベルのコンピュータ」(『滴り落ちる時計たちの波紋』所収)を書いているときと、こういう問題を書いているときも同じテンションなんですね。どっちも現代にとって重要な問題だと思っていて書いているんです。
ただ、『顔のない裸体たち』は題材が題材なので、エッチな話も入っていますし(笑)、エンターテインメントとしても面白いと思いますよ。 - −−本を手に取る動機はどんなものであれ、読み終えて、何がしかが残れば、それが作家の力ですよね。
- 平野さん
面白がってもらうことは大事なことだと思いますね。
以前、瀬戸内寂聴さんとお話したときに「小説なんて寝転んで読むものなのよ」とおっしゃって、それはすごく本質的なことだと思うんですね。
理想に燃えて、文学はこうあるべきだっていう気持ちで書いていく部分もあるし、一方では、小説なんてしょせんは寝転がって、鼻くそでもほじりながら読むようなもんなんじゃないかっていう気持ちもあるんですよね。
その両者の間で引き裂かれながらものを書くのが小説家の本当のあり方だと思うんです。そのどちらも忘れないで書きたいというのが、ぼくの作家としての基本的な姿勢ですね。 - −−今年はこれから、1000枚の長編にとりかかるそうですね。
- 平野さん はい。舞台は現代で、殺人をテーマにした長編小説です。夏ごろからとりかかりたいと思います。最近は、その準備のために、もっぱら読書ですね。
- −−楽しみにしています。今日はありがとうございました。









