−―42歳でのデビュー。作家としてはかなり遅めですね
白石さん ええ。記者・編集者として21年間、サラリーマン暮らしをやってましたからね。
−−しかし、遅めのデビューとは思えないほど、みずみずしい文章に驚かされます。出版社に勤めていたときも、非常に優秀な記者・編集者だったと伺っていますが、多忙なその間も、ずっと小説を書いていらっしゃったんですか?
白石さん いえ。大学時代はとにかく一生懸命、我流で小説を書いていたんですが、卒業して出版社に就職が決まったとき、小説家になるのはいったんあきらめたんです。とにかく仕事も忙しかったし、もともと人嫌い、人見知りも激しい人間でしたから、会社仕事に適応するだけで四苦八苦でした。ただ、それでも、いつか自分は物書きになるんだろうな、とはずっと思っていましたね。
−−白石さんが、やはり「小説」という活字を通して、読者にさまざまな問いかけを始められたのは何がきっかけだったんでしょうか?
白石さん きっかけになるかどうかは分からないけれど、在職中の1998年、僕が39歳のときに、パニック障害になっちゃったんです。突然、めまい、動悸や手足のしびれ、吐き気、息苦しさなどを感じると同時に、強い不安感や恐怖感に襲われるという病気で、発作が起こるのではないかという予期不安が常に付きまとうという、苦しい状態に陥りました。肉体的にはほとんど問題が生じないのですが、仕事を続けていくのは難しくて……。パニック障害を発症した後、もういちど小説を書くようになって、当時の自分なりに納得がいくものを書き上げることができて、ようやく発表したのが『一瞬の光』でした。
−−学生時代はどんな小説を書いていたんですか?
白石さん 実はあんまり覚えていないんですよ。家には置いてあると思うんですが、自分でも思い出せない。でもちょっと怖い気もしますね。今読んだら感心するかもしれない。小説や音楽って、経験を積んで熟練したらスキルアップするとは限らないんですよ。たとえば、セックスしなくなった男性作家は、肉体関係を伴う恋愛小説ってあんまり書けなくなると思うんです。小説はある意味、「生もの」だから。大学生の頃は、今の自分には書けない小説、その当時の自分にしか書けないような小説を書いていたのではないかと思います。
−−パニック障害という苦しい体験を経て、改めて執筆したデビュー作は、高い評価と読者の共感を得ています。
白石さん 自分が病気をしたことが、どれだけ自分の書くものに影響を及ぼしたかは、今もってよく分かりません。ただ、それまでは良くも悪くも競争に勝ち残ることばかり考えていた自分が、「成功した人生だった」と一行で終わるような人生ではなく、何行も何行も費やして語るべきことのある人生のほうが愛おしいと本心から思えるようになりましたね。人はよく何事かを成し得ないとすぐ言い訳をしてしまうけど、そうした言い訳さえしなければ、失敗だって成功と同じ価値があるんです。つまり「言い訳をする」という自分たちの心が問題であって、失敗自体は別に問題ではない。僕は、病気をすることで、そうしたある意味の相対化が、どんな状況でもできるようになりましたね。
−−冒頭の一篇である『20年後の私へ』は、まさに、20歳の自分がイメージした風景と、39歳になった自分が見ている風景を切り取ったお話ですね。女性の視点から書かれたお話でしたが、男性作家が書かれたとは思えないほどリアルで、自然に読み進められました。
白石さん 仕事に恋に迷う離婚経験者の女性が39歳になった今、20歳のときに短大の授業で書いた、20年後の自分宛の手紙を受け取るというストーリーですが、20年というのは女性にとって、とてもリアルな数字だと思います。具体的なイメージは別として、漠然とでも20年後の40歳ごろには結婚して出産して、と想像している女性が少なくない。でも、だいたいの人が「なんでこんなんなっちゃったんだろう?」と思っているのではないでしょうか。 僕も、20年前には、もっと早く物書きになっているだろう、と想像していましたし。
−−主人公の岬からも、白石さんからも、「思うとおりにならなかった人生もひっくるめて自分の人生なんだ」、と語りかけられているようで、読後にとても暖かい気持ちになれました。
白石さん 逆説的ですが、自分自身の不完全さを許容することこそ、より完全に近づくためのファクターだと思います。若い頃に描く将来の自分イメージは、実はとても貧困であることが多い。スチュワーデス、作家、銀行員など、なりたい職業は思い浮かんでも、どんな人柄の40歳になっているかまでは想像できていないんです。できることならば、何を許せて何を許せないか、どんな恋愛を経て、何を知りえたか、という、なりたい自分の内面について、もっと掘り下げてイメージするべきだと思いますが、若くしてそれができる人は少数派で、その不完全さこそが若さではないかと思います。
あとがきにも書いたのですが、「こんなにひどく見える世界ではあるが、それでもここは完璧な世界なのだ」と皆さんにも思って欲しい。失恋や離婚という、個人的な不完全さだけでなく、戦争やテロ、犯罪、疫病、天災などで命を失うなどの過酷で大規模な不完全さがこの世界には満ち溢れている。とかく絶望を抱きやすい世界だけれど、それでも尚、世界は十分に完成されている、とまず思うことが僕は大事だと考えています。
今回の4篇に登場する人物も、完全な人物ではありません。でも、それでいいと僕は思う。『20年後の私へ』の主人公・岬も、おそらく20年前の自分に向かって「期待に添えなくて申し訳ない」と思ったのだろうけれど、それはそれで責めるべきことではない。僕だって40歳を過ぎたら、さすがにもっと立派なちゃんとした人間になっていると思っていたのに、いまだに不完全なまま(笑)。今でさえそうなんだから、おそらくあと20年後もたいした成長はしていないかもしれない。でも、だから逆に「地位を手にしている人や、偉いと言われている人だって、多分みんなそうなんだろうし、そうであったのだろう」という想像も働くようになる。
−−『どれくらいの愛情』の主人公・正平も、過去に手放したものにもう一度向かい合うチャンスを得ました。失敗のない人生だけでなく、悔恨や痛みを抱えて生きている彼らの今にこそ、意味や価値があるということでしょうか。
白石さん 失敗や後悔で学べることは、「人生は自分だけで選択できるものではない」ということ。たとえば離婚だと、自分はいくら好きでも、向こうに好きな人ができてしまったら自分に選択権はない。人生の重要事項になればなるほど、自分だけでは選べないことばかりが増えてきます。この4篇に出てくる人物は、痛みをもってそのことを知らされてゆきます。大切なことほど、自分一人の力では解決できないし、決められない――そういう認識を持ったとき、人間は「だったらそういう何も決められない自分とは、一体何者なのだろう」と、とても不安になる。そうした不安が、自分の本当の姿を知る最初のきっかけを与えてくれるわけです。
−−辛い恋愛は、人の不完全さを浮き彫りにするということでしょうか?
白石さん 不完全さを浮き彫りにするし、また一方で「自分とは何か」、という根源的な問いに向かわせる原動力になると僕は思います。だからこそ、大人になったら真剣に、本気で恋愛をしなければならない。
恋愛とは、呼吸をするように、誰にでもできることなのに、いまだに誰も完成形を見たことがないし、決まった正解もない。愛情は定量化できないし、感情は常に変化し続けている。そんな不安定な分野で、本気で人と向かい合うことができたら、自分というものが多少は理解できるんじゃないでしょうか。
『どれくらいの愛情』で、“魂の片割れ”という言葉を書いたんですが、人生って、その片割れを見つけるという壮大なミッションを持たされているものだと僕は思います。それを探す旅の途中で、「自分とは何か」という問いが生まれ、人生の本当の目的が見え始める。そして私たち一人一人が死ぬまで追いかけ続けなければいけないのは、結局、「自分とは何か」というテーマだけなんです。
−−4月に出版された『もしも、私があなただったら』を含めた5篇は、2005年8月から2006年5月の、約一年間という短い間に執筆されていますね。
白石さん はい。だから、この5篇は一群になっていると思って欲しいですね。この5篇で問いかけ続けた「自分とは何か」と対になっているものは、「目に見えないものの確かさ」だと僕は思います。これまでの作品でも同様のことを追求してきましたが、今回の5篇はよりダイレクトにそのためのエピソードを組み込んで、小説のテーマをさらにはっきりさせました。
「この目に確かに見えている現実の世界は、目に見えないさまざまなものの不確かさで裏づけされている」と僕は思います。自分自身の本質でさえ、しっかりと把握できている人はごく少数です。しかし、人間の感情の中でももっとも不確かな「恋心」や「愛情」という感情を通すことが、「自分が何者なのか」をぼんやりとでも掴み取るための最短距離なのではないか。そして「自分とは何か」ということを真剣に考え出したとき、初めて、本当の意味で他人を愛することができるようになるのではないか、とも思っています。
だから、そうした濃密なテーマを一生かけて追い求めていかなければならない「人間」には、それ以外の余計なことに費やす時間はないんです。出世を目指して会社のトップになるのもいいし、猛勉強して宇宙の真理に迫るのも悪くないけれど、あんまりいろんなことを求めすぎないほうがいい。自分が何者かを理解すれば、他人も、広い世界も、しっかりと手に掴んで、理解できるようになる、と僕は思っています。
−−今日はありがとうございました。
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