- 辻村深月さん
- 1980年生まれ。2004年『冷たい校舎の時は止まる』で第31回メフィスト賞を受賞しデビュー。著書に『子供たちは夜と遊ぶ』『ぼくのメジャースプーン』『ロードムービー』(以上、講談社)、『太陽の坐る場所』(文藝春秋)、『ふちなしのかがみ』(角川書店)など。作家・綾辻行人と『ドラえもん』の大ファンとしても有名。
インタビュー
- −−地方から東京に出たキャリアウーマンと、地元で普通の主婦やOLになった女性たち。そんな幼なじみの微妙な距離感が、とってもリアルに描かれていますね。この作品を書こうと思われたきっかけは?
- 辻村さん以前、酒井順子さんの『負け犬の遠吠え』がベストセラーになり、「負け犬」という言葉が流行りましたよね。「負け犬」という言葉は、自分たちへの励ましも込めた“自称”の言葉だったはずなのに、いつのまにか言葉だけが独り歩きし、未婚・子なしの女性たちに対する蔑称のようになってしまった。そのことを漠然と疑問に思っていたんですが、3年後に林真理子さんが書いた文庫版の解説を読んだとき、今までモヤモヤとしていたものが一気に腑に落ちたような感じがしたんです。「酒井さんの考える負け犬というのは、地方の事務服を着た女性たちではない」――その言葉を読んだとき、すごい衝撃を受けたんですね。私も去年までは山梨でOLを兼業していたので、自分自身が「地方で事務服を着ている女の子」だったということもあるんですが、周りにいる30代以上で未婚・子供なしの子たちは、「負け犬」という言葉に漠然と傷ついてしまっている。では、地方で事務服を着ていて、なおかつ一般的な負け犬条件に当てはまるような子たちは、どう名づければいいのか。彼女たちが感じる息苦しさは、都会ではありえないほどの息苦しさであるはずだ、「地方で事務服を着た私たちの名前を探す」つもりで丁寧に書いてみたい――そう思ったのが執筆のきっかけでした。
- −−地方と都会の格差、モテ格差、持てる人と持たざる人の格差――この作品では、さまざまな格差の間で揺れる女性たちの姿が描かれています。
- 辻村さんこの小説を書くにあたっては、「格差」が生まれてしまうスタートラインを掘り下げることから始めました。女性の「地方負け犬」の苦しさを書く上で、どうしても避けて通れないと思ったのが、地方格差とモテ格差、母娘関係の問題でした。この3つの部分は深く絡みついていて、容易に断ち切ることができない。だから、同じように書き込まざるをえなかったのだと思います。 こういう格差を実感できたのは、たぶん私自身が山梨と東京を行き来しながら暮らしているからでしょうね。小学生のときって、親の仕事が何だとか、そんなことは大して気にならないですよね。ところが、大学4年間東京で暮らして地元に戻り、かつての幼なじみたちと再び顔を合わせたとき、考え方にものすごく差が出てきたことに気づく。互いに対極にあって、譲れないことができてしまう。この年にならないと見えてこなかった部分、というのがたしかにあるわけです。 29歳になった年にこの小説を書いたのも、「今ここで書かなかったら、先に進めなかった」ということなんだろうな、と。最近の私の作品では、地方格差や仮想敵としての母親の存在が、何を書いていても多少にじむことがあったんです。一回、その部分を全部出し切らないと、次に書きたいものが見えてこないんじゃないか、と。そんなふうに思ったんです。
- −−この作品には2組の母娘が登場します。そんな母娘の葛藤も、この小説の大きな軸になっていますね。このテーマに関して、今回とくに描きたかったことは何ですか。
- 辻村さん「母の愛は素晴らしい」と思う反面、「母の愛は気持ち悪い」というのが、どうにもこうにもあるんですよね。母娘関係には、父親−娘や、母親−息子の間では考えられないような、特別なものがある。そんな母娘関係の気持ち悪さと割り切れなさを、どこまで深くもぐっていけるか、という点にこだわりました。ただ、作品の中で描いた母娘関係以上に、現実の母娘関係のほうが根深いものを抱えていると思うんですね。私自身が、話の中に登場する二人の娘のどっちであってもおかしくなかった、という感覚がある。作中で描いた母娘関係にしても、ラストにしても、読者によってとらえ方がすごく違うと思うんですね。なので、自分自身も小説を書くことで、母娘関係の問題に結論を見出したいという思いがありました。心療内科の医師が書いた本やノンフィクションではなく、小説でなければ書けない結論って絶対あるはずだ、そう思って手探りで書き始めたところがある。それが、今回の小説の執筆に至った一番のモチベーションだと思います。
- −−実際にこの小説を書き上げた今、どんなふうに感じていますか。
- 辻村さん壮絶なデトックスが終わった、という感じです(笑)。それも、サウナやエステのような優雅なデトックスではなくて、重いインフルエンザにかかって1週間寝込んだ末に、やっと快復した、という感じ。重だるさは残ってはいるけれども、この小説を書くことで、他では絶対味わえないような経験をさせてもらった。今はとてもスッキリしていますね。
- −−今回の執筆で一番苦労したところは。
- 辻村さん最後まで悩んだのは、登場人物の互いへの依存度をどうするか、関係性の強弱のバランスをどうするか、という問題です。主人公の2人の女の子の互いに対する依存、母親たちの娘に対する依存、娘たちの母親に対する依存――そのあたりの濃淡と、エピソードとしての切れ味に最後までこだわりました。最初から最後まで迷いつつ、結論を探りながら書き進めてはいたんですが、筆が止まることはなかったですね。自分の中で自然と導き出された結論に向かって、一気に書かせてもらった感じです。
- −−物語は中盤から加速して、結末に向けて一気に盛り上がっていきますよね。そのスピード感に乗って、最後は夢中で読み切ってしまいました。
- 辻村さん最後の場面に行くまで出てこなかった結論、というのが本当にあるんですよ。作品を書きながら漠然と自覚してはいたけれど、書き終わったときに「ああ、自分はこんなことを考えていたんだ」ということが客観的にわかった。その意味では、本当に「突き動かされて書いた」という感じですね。
これまでの作品と違い、自分がそれを「デトックスだ」と感じる特別感も、そのあたりに由来しているのではないか、と。
ミステリー小説では、登場人物が悩んでいたとしても、それは作者からの要請で悩んでいるだけであって、作者自身は結論を知っているし、悩んでいないという場合も多いと思うんです。でも、私の書き方はそれとは違って、毎回自分自身が作品の中に入ってしまう。登場人物と一緒に、私も悩み、迷いながらの手探り状態です。自分でも予測がつかず、結論が出るかどうかわからないような書き方でしたが、この方法でなければ見えてこなかったものが絶対にある。これからも、“予定調和のミステリー”ではなく、自分自身も登場人物と一緒に悩むような書き方しかできないかもしれないなあ、と思います。
- −−これから、どんな作品を書いていきたいですか。
- 辻村さん今はデトックスを終えて、とても身軽になった状態。次に自分がどこに行くのかを一番楽しみにしているのも、たぶん自分自身なんです。地方格差の問題にしても母娘問題にしても、40代、50代になったとき、また違う種類の苦しさに直面するんだろうな、と。そのとき、自分が問題にどう取り組み、どんなふうに解決していくのか。この『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』を、将来の自分はどう読むのかと思うと今から楽しみです。
- −−読者へのメッセージを一言、お願いします。
- 辻村さん今、女の子を「女子(ジョシ)」と呼ぶのが流行ですよね。「女子」というのは、何歳になっても通用する概念。「女性」でも「女の子」でもなく、「女子」と呼ぶことで折り合いがつく感覚って、たくさんあると思うんです。その意味では、すべての女子とすべての娘に、この本を読んでいただきたいと思います。
- −−すべての女子がどこかに自分を投影したり共感したりできる、リアリティに満ちた力強い小説だと感じました。今日はありがとうございました。