2015.7.21更新
SOUL SURVIVOR──『HERO』撮影現場レポートepisode4
みんなと一緒にいること。
「やりましょう。このチームなら、できます」
その一言が、強く印象に残っている。
映画の撮影現場は予期せぬトラブルの連続である。どれだけ周到な準備を重ねていても、たとえば台風が来たら、地震が起きたら、その日の撮影はオジャンである。
その日も、あるアクシデントが起きた。それはどうすることもできない出来事だった。しかも、かなり大がかりなロケ撮影。延期するとしたら、撮影スケジュールは大変なことになる。現場が途方に暮れていたとき、木村拓哉は、旧知の鈴木雅之監督に言った。
「やりましょう。このチームなら、できます」
この主演俳優は、撮れるところから始めましょう、と打診。この一言が現場の士気を高めた。キャストはもちろん、スタッフも、「やろうじゃないか!」、そういう気持ちになった。
記述すると、綺麗事、絵空事に映るかもしれないが、あの一言はほんとうにリアルで、ほんとうのエネルギーがあった。木村が「やりましょう」と言ったのは、共演者を、そして各部署の映画人たちを、心の底から信頼しているから。簡潔なことばに、魂がこもっていた。
そして、撮影は始まった。まさに撮れるところから始めたのだ。そして、奇跡は起きた。なんと、そのアクシデントは回避され、その日、映画『HERO』は予定通りのシーンの撮影を終えることができたのである。
城西支部メンバーが、撮影直前までひとかたまりになって雑談しているのは有名な話。劇場版でもそれは変わらず、撮影所ではいつも大きなテーブルを囲んでいた。別に、常におしゃべりしているわけではない。それぞれが思い思いにときを過ごしている。そう、ほんとうに仲の良い友達の家に遊びに行ったとき、お互いぼんやり、まったく別々のことをしていても(たとえば、ひとりがゲームして、ひとりが漫画を読んでいても)、同じ時間を共有することができていることに、それはよく似ている。一緒にいる、というのは、そういうこと。こころと、こころとが、つながっていなければ、そんな状況は生まれない。そして、木村拓哉は、そうした「輪」のなかで、決して座長然と振る舞っているわけではない。ただ、姿勢良く座っているだけだったりもする。けれど、彼がそこにいるだけで、チームのかたちが生まれていた。そして、ここぞ、というときには、前述したようなアクションを起こす。
「やりましょう。このチームなら、できます」
これは、なかなか言えないことばだと思った。
日常のそばにいること。
この映画は様々に読み解くことができる作品だと思う。だが、個人的には、ふたりのヒロイン、すなわち、麻木千佳と雨宮舞子の共存が明確化する、久利生公平という主人公のありようこそが、最大の焦点だと考えている。「公平」という名を持つキャラクターのフラットネス(公平性)を、木村拓哉はいかに体現するのか。撮影現場で、わたしがもっとも注視したのも、この点であった。
予告編でもきわめてヴィヴィッドな印象を残す「いまのオレのパートナーはお前だろ」という久利生の台詞を、木村はどのように発したか。
この台詞は、久利生と麻木が屋台でおでんをつつくシーンにある。この場面は深夜の川崎で撮影された。ある商業施設の一角を貸し切り、そこに、おでん屋台を建て込む。木村は例によって、早くから屋台のそばにいて、北川景子の到着を待っている。この共演者を「待つ」姿勢は、セット、ロケにかかわらず、一貫している。とりわけ、女優に対しては、それが徹底しているように思えた。
おでんの準備も整わないうちから、木村はあたりをウロウロしている。彼の真意はわからない。ただ、見つめているかぎりでは、彼はとにかく、現場の「そば」にいたいのだなと感じた。とりわけ、このシーンは、その必要があったのだと、いま振り返ると思う。
北川が現場に合流、テストが始まる。テストでも、食べるふりではなく、実際におでんを食べる。おでんがあるからこそ、成立している会話だからだろう。
屋台ならではの横並びの距離。それが近いからこそ、その台詞は、カジュアルだった。強すぎることもなく、弱すぎることもなく。脚本では、かなり意味シンにも感じられたこの台詞は、とても大切に放たれながらも、ごくごく日常の延長線上にあった。そう、おでんのように、近しい何かとしてそこにあった。それが、久利生にとっての麻木とのパートナーシップなのだと思わせられた。そして、その台詞を無言で受けとめる北川が素晴らしい。北川は別な場面でも、やはり絶妙な無言の表情を見せていた。
色彩を運転すること。
雨宮との場面では、なんと言っても、ある部屋の一室で、互いに目を合わせずに話すシーン。鈴木監督の現場は長回しが多い。木村、そして、松たか子、それぞれを、カメラがじっと凝視する。とりわけ、木村はかなりの長台詞である。
これは、もはや、現場においては当たり前のことで、もはや伝説として語られることすらなくなりつつあるが、木村拓哉はNGを出さない。わたしは、木村出演シーンの撮影に合計、10回、足を運んだが、ただの一度もNGがなかった。どんな名優でも、どんな演技派でも、言い間違いはあるものだ。ところが、木村はどのような局面でも、そのようなミスがない。
もちろん、この松との場面でもそうだった。共演者を見ずに芝居をすることは、おそらく相当な想像力が必要になる。しかし、この両者はさすがだった。久しぶりの共演であるにもかかわらず、この高度な「空中戦」を軽々と成立させていた。
ここでの木村は、松との距離があるからこそ、声のグラデーションに留意していたと思われる。あくまでも想像だが、木村は常に、「シーンの色彩」というものを意識下に置いているのではないか。その「色彩」とは、現実的な、映像的な色のことではない。木村はモニターをのぞかない。そうしたリアルな色のことではなく、内省的な色合い、たとえば、肌触り、ニュンス、タッチ、そうしたインナーの「色彩」を大切にしているのではないだろうか。
北川とのおでん場面では、どちらかと言えば、きりっとエッジが立った演技だった。ところが、松との室内シーンは、淡い芝居で、それが雨宮との関係性を示すというよりは、画面そのものに貢献していることを、わたしは撮影現場のモニターを見ながらはっきり体感した。
感情がなければ、役者の芝居は存在しえないだろう。だが、感情だけでは、あのような芝居は生まれえない。
木村は11年前、わたしに「演技とはアクションをプレイすること」と語った。
感情という名のコースを、感覚で走っていくこと。彼がおこなっているのは、そのようなことなのかもしれない。
木村拓哉にしかできない「ドライヴ」があり、久利生公平にしか見せることができない「車窓」がある。
相田冬二※このコラムは、楽天ブックスのオリジナル企画です。