2015.9.1更新
夏の終りのハーモニー ──『ほん怖』稲垣吾郎の役割。
さようなら。
と季節に別れを告げたくなるほど涼しい毎日がつづいていますが、いかがお過ごしですか。
『ほん怖』が放映されると、どんなに暑い夏も終りです。
もう夏休みが終わってるところもありますし、そうでないところも、もうすぐ終ります。
四季のなかで終りがもっとも物悲しいのが夏ですね。
春なんてのはアレです、始まりのことしか話題になりません。花の粉が飛んできてハックショーンです。今年も桜が咲いた、ああ良かったで、梅雨になり、いつの間にやら、終っています。春を惜しむ声はあまり聞こえてきません。ハックショーンしなくなって、よかったよかった、とむしろ大歓迎される趣。
冬はロマンティックなシーズンですが、これも、あまり終ってほしくない的な話は耳に入ってきませんね。ハックショーンとは別に、暖かくなるんだから、それはそれでいいやというか、闇から光に這い出るみたいな、前向きなかたちで、季節の終りが受けとめられます。っていうか、春とセットなんですよね、結局、冬って。
秋は、一年でいちばん過ごしやすい季節だと思いますが、初秋や晩秋なんていうことばのイメージにもよくあらわれているように、もうハナから、さみしいのが当たり前、さみしくない秋なんて秋じゃないというか、覚悟が決まってると思うんですね。だから、いざ、終るとなっても、そりゃあ、さみしいはさみしいけど、さみしくなるのはわかってたはずだよね? って言われる(だれに?)前に、うん、ぜんぜん、さみしくないよ、ってな態度で、まっとうするしかないというか、強がるぐらいの心意気は持っていて当然だと思うんですよ。
ひとは。
秋で強くなって、冬でゲンキン(合理的)になって、春でバカになる。
では、夏にはどうなるのか。
弱くなるんですね。暑さにヤラれて、もうイヤだ、冷たいものと麺類しか食べたくない季節なんてはやく終ってほしい、とか思いつつも、いざ、終るとなると、妙に名残惜しくなってしまって。弱い。弱すぎる。自分はなんて弱い人間なんだと思い知る季節が夏だと思います。
稲垣吾郎さんが小学生たちに囲まれる「ほん怖クラブ」システムは、テレビを観ている子供たちにとって、この映像怪談がトラウマにならないようにするための機能だと思いますが、もう子供ではなくなってしまったわたしたちに向けている面も明らかにあるのではないでしょうか。
今年の『ほんとうにあった怖い話 夏の特別編2015』。高梨臨さん主演の「黒い日常」というタイトルによくあらわれていましたが、怪談というのもは、日常のなかにある「黒」を発見する、あるいは、日常というものはそもそも「黒い」ものなのだと思い知る過程なのかもしれません。
日常感覚に重きをおいていた玉森裕太さん主演の「どこまでも憑いてくる」なんて、まさにそうでしょう。ほんとうに怖いのは非日常ではなく日常。ほんとうに狂っているのは非日常ではなく日常。そういうことです。
マンガじみたメガネをかけて、少女や少年たちと微妙な距離を保ちながら、あくまでも明るく「ほん怖五字切り」をする稲垣さんは、「黒い日常」に溺れ、夏という季節で徹底的に弱くなってしまったわたしたちの魂を退散させます。そもそも、怪談というものは、そんな心を「払う」ためにあるのです。
どうせ、秋になれば強くなる。冬になれば臨機応変になる。春になればバカになって、「日常は白!」などと小躍りするに決まっているのです。
だいじょうぶ、だいじょうぶ、いまだけ、いまだけ。
稲垣さんはそう言っているのかもしれません。
感傷にひたることなく、こう口にしましょう。
さようなら!
相田冬二※このコラムは、楽天ブックスのオリジナル企画です。