2015.10.13更新
稲垣吾郎はだれを抱擁しているのか──舞台『No.9』をめぐって
ベートーヴェンの肩をつくる
稲垣吾郎は舞台『No.9ー不滅の旋律ー』において、ベートーヴェンの肩をつくりあげた
型ではない、肩である
そもそも演技とは、人間を型で表現することではなく、固有の人物の肩をつくることだったのではないのか
そう思わせるほどに、稲垣がここでつくりあげたベートーヴェンの肩は簡潔にして繊細、多義的かつ豊穣である
わたしたちは、いっそのこと、彼の肩だけ見つめていればよいのではないか
そんな暴言すらも、荒々しいものには響かせない、拡がりがここにはある
セカイ(それは、社会や大衆といった外宇宙であると同時に、彼の脳内に息づいている音楽をめぐる内宇宙でもある)を愛することができないにもかかわらず、セカイに愛されることには人並み外れた渇望をかかえる者として、ベートーヴェンは描かれている
彼の不幸は、セカイを愛することができないことではなく、セカイに愛されていることを感受できないことにあるのだが、この、感性における不能は、聴覚障害や幼少期の忌まわしい記憶と混同されることによって、もはや動かしがたいアイデンティティと成り果てている
彼がつくりあげる音楽は、彼自身を救わない
この非情なまでに決定的な事実が、彼の天才性とはいささかもかかわりを持たないまま、事態は進行してゆく
つまり彼は、天才だから不幸、なわけではないことに留意しながら、稲垣吾郎は、普遍的な不幸ではなく、あくまでも、個的な不幸として体現してゆく
聡明なこの俳優は、言うまでもなく、役を紋切型の、大雑把な悲劇に落としこむ愚もおかさない
ベートーヴェンには、ベートーヴェンにしか体験できない不幸があった
そのかけがえのない真実を稲垣は、ナルシシズムとは無縁のまま、かたちにする
ありきたりの奇人変人ではなく、偏屈なひきこもりというわけでもないこの音楽家は、根源的なコミュニケーションに飢えている
セックスも、父親気どりも、盲信や妄信に映る執着は、すべて魂の飢餓状態を示している
では、飢餓を戯画としてかたちづくるため、稲垣はなにをしたのか
ベートーヴェンの肩をつくった
たとえば、高岡早紀を抱擁するときの、あの身ぶりはどうだろう
あの、セカイを愛することも、セカイに愛されることも感知できない孤独の震えが、愛しいひとともっとも近くにいるにもかかわらず、彼の肩には宿っていて、男性的な力強さとは一切無縁のまま、虚空としての情景を醸し出す
彼は彼女を抱きしめているわけではない
彼は彼自身を抱きしめているわけでもない
なぜなら、彼はセカイを抱きしめることも、セカイに抱きしめられることも、まだ知らないからである
まるで、抱擁という行為を覚えたての幼な子のように、稲垣吾郎はベートーヴェンの肩を開示する
開示することで、ベートーヴェンの無防備な心性をも、あからさまにする
この、顔面の表情にはまったく頼らない、固有の肩の醸成が、わたしたちのこころを振り向かせる
この肩を吟味する、さまざまなシークエンスが用意されている
たとえば、ひとりで椅子に座りたたずんでいるベートーヴェンの、静止と震えがともにある、あの言語化不能の風情は、彼の肩がつくりだしている
やがてわたしたちは気づくだろう
ピアノを弾くことも
譜面を書くことも
指揮をすることも
抱きしめることも
抱きしめられることも
すべて肩がおこなっていたことを
腕ではない
手ではない
指ではない
肩だ
肩こそがベートーヴェンなのである
ベートーヴェンの肩を見たことがある者はだれもいない
だが稲垣吾郎はそれを目に見える唯物として提示する能力があるのだ
それこそが、彼の芝居の力に他ならない
相田冬二※このコラムは、楽天ブックスのオリジナル企画です。