2015.10.20更新
脳がこころに敗れ去るとき──香取慎吾『一千兆円の身代金』
Do the Right Thing
こんな香取慎吾が見たかった。
こんな香取慎吾に出逢いたかった。
こんな香取慎吾を待っていた。
彼が、少女を立たせ撮影する際、指示する声が、ぶっきらぼうに響くとき、はっきりそう思った。
冷静と情熱がともにある声。
諦念と希求が隣り合わせにある声。
カモフラージュと剥き出しが渾然一体となった声。
そうだ、そうなんだ、香取慎吾はこれができる役者なんだよ!
全世界に向かって叫びたい衝動に駆られた。
この主人公は必ずしも、ものすごい頭脳犯というわけではないし、すさまじく冷酷非常というわけでもない。
ただ、前代未聞の犯罪をおこなうにあたって、己に負荷をかけているし、その必要があると確信していたのだ。
おそらくは、ごく普通の青年である彼は、かりそめのクールネスを鎧のように着込んで、カタカタと体内のハードディスクに向かって、一心不乱にキーボードを打ちつづけている。
そうしなければ、自分はなにもできない。
それは信念というよりは、自分を縛りつけなければ一歩も前には進めないと考える、愚直な挑発によるものだ。
その不器用な一途さを、決して泥臭くはなく、かといって、洗練された方向に向かうわけでもないスタイルで、香取は見せる。
エッジの立った、人間くささ。
アイデンティティにしても、パーソナリティにしても、多くの演じ手が、球体に向かうのが主流のなか、本物の手打ち蕎麦がそうであるように、キャラクターの角を際立たせることで、香りもコシも喉ごしもある、平明にして鮮烈な人物像を浮かび上がらせる。
香取は、鋭利な人間を演じているのではなく、人間を鋭利に演じている。
ジャックナイフと剃刀を、密やかに使いこなしながら。
大胆にして繊細なその芝居は、ふたつの要素を同時に味あわせながら、その決着の行方を明瞭に物語る。
最終盤の香取慎吾の演技には、冷酷が感情に、静謐が絶叫に敗れ去る瞬間が、ごく当たり前のように刻印されている。
この主人公は豹変したのではない。
ふたつの元素は、もともと彼の体内にあった。
その事実を、香取慎吾は、淡々と準備し、最後の最後に決壊させる。
その光景は、わたしたちに、ある現実を告げるだろう。
わたしたちは、感覚と情念に揺れ動くタイトロープの上を歩行している。
だが、あるとき、脳はこころに敗れ去るのだ。
必ずといっていいほど、脳はこころに負ける。
香取慎吾は、それを物悲しく体現するのではなく、むしろ、さわやかな現象、人間という生命体の、数少ない可能性のひとつとして、明滅させる。
陰影のグラデーションではなく、白と黒とが勝負をつけるように表現する。
脳はこころに必ず負ける。
どんなときでも負ける。
その、閃光のような潔さ。
だからこそ。
たったひとつの小さな善行が、巨悪に踏み潰された魂を救い出すことがある。
Do the Right Thing
それが、おまえの力になる。
相田冬二※このコラムは、楽天ブックスのオリジナル企画です。