2016.5.10更新
意識と無意識──『ギャラクシー街道』オーディオコメンタリー
見えないものを見る
DVD/ブルーレイともに、スペシャルエディションには三谷幸喜監督と香取慎吾さんによるオーディオコメンタリーが収録されています。ちょうど、その収録直後の三谷監督にインタビューする機会があったのですが、監督は香取さんと一緒に映画を観ながらお話しすることを存分に楽しまれたご様子でした。
わたしもかつて何本かの映画のオーディオコメンタリーに参加した経験があるのですが、収録はもう始まったら、映画が終わるまで、延々話しつづけないといけないんですね。『ギャラクシー街道』の場合は上映時間が約110分なので、ふたりの対話が現在進行形で、それだけつづくということになります。
これだけの時間を、ふたりの声に耳をすまし、映画の映像はある意味、バックグラウンドとして眺めていると、それぞれの人となりを、これまでとは違ったかたちで体感することになります。ラジオのようでもありますが、やはり、ラジオは違いますね。向こうも、こちらも、映画を観ながら話しているということが、ラジオとは違ったものにしているわけです。
基本的には、三谷監督が進行し、映画の狙いや、こぼれ話、多彩なキャストそれぞれについて語りつつ、具体的なシーンについて、香取さんに尋ねるという展開です。もちろん、香取さんのほうから、三谷さんに質問することもあります。
興味深いのは、このふたりには、似ている部分と、異なる部分が、同居するように、共にあること。オーディオコメンタリーというものは、すべてが映画の場面に沿って話さなくてもいいわけで、脱線も許されています。ですが、このふたりは、あまり横道にはそれない。結構、いや、かなり、きっちりしています。日本の電車って、いうんですかね。時刻通りに到着し、時刻通りに出発する。そんな感じです。
おしゃべりな三谷監督に対して、香取さんはもの静かですが、ふたりとも、ある種の冷静さを抱えながら、運行している印象があります。話し方は対照的ですが、漫才のボケとツッコミみたいなアップダウンではなく、暗黙の了解のまま、同じ地点を目指して、レールの上を走っている。車両の震動とか揺れは、ほとんどありません。それは息が合っているというよりも、両者の資質がもともと近いところにあるからだと思います。何度もコラボを重ねてきたから、ではなく、もともと似ているところがあったから、長く一緒に仕事ができているのではないでしょうか。
面白いのは、「ここはどういう気持ちで演じていたの?」と三谷監督が訊くと、香取さんはかなり率直に答えるんですが、どうも、三谷監督の想定とは違っていたようで、そのたびに、三谷監督が反省することですね。これからお聴きになる方も多いと思うので詳細は避けますが、こうしたやりとりが何度かあり、両者の違いが浮き彫りになる。ここが最大の聴きどころです。
そして、この違いは、監督というものと、俳優というものとの、根本的な違いでもあると考えられます。監督は俳優の芝居を「見る」。つまり、俳優は監督に「見られる」。この「見る/見られる」の関係によって成立しているんです。香取さんはコメンタリーのなかで、自分はグリーンバック(合成)の撮影は慣れている、と証言していますが、これがどういうことかと言えば、そこにはないものを、あたかもあるように演じる、ということなんですね。このコメンタリーのなかで、三谷監督は何度も俳優たちへの敬意を表明していますが、俳優は「見えないものを見ている」種族なのです。これは、合成があるなしに関係ありません。フィクションの設定のなかで、感情なら感情をやりとりするというのは、すべて「見えないものを見る」ことに他なりません。監督は俳優の芝居という具体を「見る」。しかし、俳優は具体ではなく「見えないものを見る」。違っていて、当然なんです。
三谷監督は、香取さんにあることを教わったと語ります。このエピソードに両者の違いが最大限にあらわれています。
ふたりは似ている。けれども、違うところがある。そういうひとたちが惹かれ合うのだと、あらためて思いました。
相田★冬二
※このコラムは、楽天ブックスのオリジナル企画です。