2016.7.26更新
『さんま・中居の今夜も眠れない』を観る2016
「オレはSMAP派」
テレビって、生(ナマ)なんだよな。
ネットにも生放送的なものはあるが、あんまり生って感じはしなくて、特にSNSとかは、やっぱり過去の集積って感じがする。瞬時に過去になっていくものたちを眺めてる気がする。
このコラムもそうだけど、文字ってやっぱり、過去なんだよ、もうどうしようもなく過去。いま、この瞬間のときめきを、どんなにスピーディにtweetしても、それは文字に変換した途端に過去になる。
当たり前だけど、話し言葉と書き言葉は、まるで違っていて、どれくらい違うかっていうと、これはもう、女性と男性ぐらいのひらきはあるんじゃなかろうか。
話し言葉っていうのは、やっぱり生なんだよ。過去じゃない。たとえ、あらかじめ収録されて編集された、いわゆるVTRと呼ばれるものだって、トーク番組のトークは、生なんだと思う。
さんまさんというひとは、テレビは生なんだということを熟知していて、だから、あんなふうにストリームを形成しているのだと思う。
その夜、さんまさんは、同じ話題を何度もふった。何度もそのネタに戻った。流れで違うところに行っても、必ず還ってきて、その話をつづけた。
一定方向に流れる川のようにではなく、渦のようにしゃべりつづけた。さんまさんの場合は、渦をつくりつづけることが生を生み出すことで、たぶん、川が海をめざして流れていくようなストリームだと、さんまさんのなかでそれは過去になってしまうんだろうなと思った。
で、なにが言いたいかというと、中居さんというひとは、MCというより、聞き手なんだよな、基本的に。
そして、この夜の中居さんを見ていて思ったのは、聞き手というのは、泳ぐひとなんだなということ。
いろんなひとがいるわけで。さんまさんのように、渦のように話すひともいれば、川のように話すひともいる。海のようにそこにいるひともいれば、湖のようにたたずんでいるひともいる。あるいは、プールのようにたゆたっているひともいる。
だけど、泳ぐひとは、どんなところでも泳げないといけない。プールでは泳げるけど、海では泳げない、なんてことがあってはいけない。
泳ぐひとは、水質によって泳ぎ方を変える必要がある。フォームなども、その場の状況に応じて、自然に変化するものだと考えられる。
もう、17年もつづいている番組だから、中居さんも、さんまさんという渦にどう対応したらいいかは、理解しているはず。とはいえ、この夜のさんまさんは、渦どころか、激流と化していた。まさかの大ネタを何度も何度もぶつけてくる。
しかし、中居さんは、あくまでも、平然と、円滑に、その激流のなかを泳いでいた。
おそらく、泳ぎ方やフォームなどは違っていたはずなのに、泳ぐひとからもたらされるものは、あくまでも平明で、いつも通り。それが素晴らしかったし、それこそが、中居さんのめざしているものなのかもしれない。
だれが相手でも、どんな話題でも、泳ぐこと。淡々と、ひるむことなく、悠々と。流されることなく、ことさら歯向かうこともなく。流さず、真摯に、誠実に、いま、自分ができることを、できるだけする。
そうやって、泳ぐひとは、生の激流を、浮かび上がらせていた。自分が、その話題の当事者であるにもかかわらず。
泳ぐひとは、生で泳いでいた。
追伸
ベッキーさんにはこれまで何の興味も抱いたことなかったが、さんまさんが「懲りたやろ?」と訊いたとき。
「懲りた」
と答えた、あの発声にやられた。
素敵な女のひとの声だった。
2014年、27時間テレビで放映されたSMAPドラマ『俺たちに明日はある』にもベッキーさんは出演していて、やはり、そこでも声が重要なシークエンスを演じていたことを思い出した。
相田★冬二
※このコラムは、楽天ブックスのオリジナル企画です。