2013.8.6更新
『劇場版 ATARU』が発見させる、俳優・中居正広の究極のかたち
中居正広は、ATARUを体現するために生まれた?
『劇場版 ATARU THE FIRST LOVE & THE LAST KILL』の中居正広は、素晴らしいという言葉がかすむほどに素晴らしい。その破格の、いや空前絶後の素晴らしさは、中居正広という演じ手のキャリアについて、わたしたちに再考を促す。わたしたちは、もう一度考える必要がある。この破格の、空前絶後の俳優について、自身の思考をすべて丸ごと投げ出して、言葉を再編しなければならない。素晴らしさ以上の素晴らしさを知ったいま、素晴らしさという概念もまた新しく編み出さなくてはいけないのだ。
この映画における中居正広は、TVシリーズ「ATARU」の中居正広のことを忘れさせる。さらに言えば、中居正広が映画やドラマ、そして「SMAP×SMAP」などで演じてきた数々のキャラクターを消去する。わたしたちの脳内に蓄積されてあったはずの俳優、中居正広の記憶は一瞬で凍結され、木っ端微塵になる。飛び散るメモリー。やがて、ブレインウォッシュの陶酔が、落ちてくるだろう。
わたしはいまのところ、こう考えている。ひょっとすると、中居正広という存在は、ATARUを体現するために、この世界に生まれてきたのではないか。そして、わたしたちはATARUを目の当たりにするために、中居正広という男に出逢いつづけてきたのではないか。それは運命というより、もはや宿命だ――そんな妄想を刻みつけるのが、映画『ATARU』の中居正広である。
中居正広は、蝶から幼虫にメタモルフォーゼする?
かつてわたしは「中居の演技のスケールはスクリーンでこそ発揮される」と書いたことがある。それは大いなる願いでもあったが、映画『ATARU』でついにそれが実現した。彼がここで見せているものはTVシリーズ「ATARU」の延長線上にはない。もちろん同一キャラクターだから接点はある。しかし、脱皮してしまっている。幼虫と蝶のように、両者には隔たりがある。どちらが蝶で、どちらが幼虫なのかはわからない。前述したように、過去の中居正広についてのわたしたちの記憶はもう失われている。わたしたちは蛹(さなぎ)のように沈黙したまま、こんなことを夢想する。蝶が幼虫にメタモルフォーゼしたのかもしれない、そんなことも起こりえるのかもしれないと。
中居正広は、ついに彼自身にふさわしい「スケール」を見つけだした。それは、スクリーンにATARUを出現させることだった。
TVシリーズでも象徴的に用いられていたシャボン玉は、ATARUの本質を指し示している。ATARUは鏡面だ。ATARUは球体だ。ATARUはすべてを映し出す。ATARUの顔にはすべてが映っている。沢俊一(北村一輝)の顔が映っている。蛯名舞子(栗山千明)の顔が映っている。ラリー井上(村上弘明)の顔が映っている。猪口介(岡田将生)の顔が映っている。アレッサンドロ・カロリナ・マドカ(堀北真希)の顔が映ってる。すべてを、すべてを映し出すためには、TVモニターはあまりに小さすぎた。スクリーンの大きさが必要だった。ATARUの球体性、あたかもGoogle Earthを思わせるその球体性は、スクリーンでなければ回転しえぬものだった。
中居正広は、地球のように回転している?
中居正広は、最低限の動きと最低限の所作でATARUを表現する。いや、表現しないことこそがATARUを表現することなのだと射貫きつづける、と言い換えたほうがいいかもしれない。ATARUには「いま=ここ」しかない。「いま」は「ここ」であり、「ここ」は「いま」である。この、あらゆる生きものにとって普遍でありながら、多くのニンゲンたちが忘れたふりをしている真実を、中居正広は、顔を「つくる」のではなく、顔を「差し出す」ことで、射貫く。いつ銃を構えたのか、いつ引き金が引かれたのか、いつ弾丸が発射されたのか、いつ銃声が鳴り響いたのか、いつ硝煙が立ち上ったのか、わからない。わからないが、気がつけば的には穴が空いている。的のど真ん中に、ただ穴が空いている。
空きっぱなし。中居正広は、まさにそのような状態=空間を作り出す。ドアはない。窓もない。屋根もない。おそらく壁もない。空きっぱなしだから、ATARUはすべてを映し出すことができる。そこに、制限はない。そして、わたしたちはATARUを畏(おそ)れる。空きっぱなしのATARUを畏れる。
映画『ATARU』のなかでもっとも衝撃的なのは、ATARUが部屋のなかをただ歩きつづけるだけで、その場にいるひとびと全員を混乱に陥れるシークエンスである。ATARUは回転しながら移動しているように見えた。ATARUのスピードのままで。地球の回転速度は同じはずなのに、あるときわたしたちは地球を畏れてしまう。それがなぜなのか、あの場面でわかったような気がした。
最終盤ではマドカとの対話が用意されている。ここで中居正広は、わたしたちから言葉を完全に奪い去る。あの表情ならぬ表情に遭遇して、いったい、どのような言葉を紡ぎ出せばいいのか。
だが、わたしたちは、それでも、言葉を再編しなければいけない。
文:相田冬二
※このコラムは、楽天ブックスのオリジナル企画です。