2013.12.10更新
いよいよ大詰め! 『独身貴族』の構造をおさらい
デヴィ夫人の「公私」
デヴィ夫人がいい。蓮佛美沙子もいいし、藤ヶ谷太輔もいいし、平岩紙もいいが、なんといっても、デヴィ夫人がいい。
繰り返しの鑑賞に耐えうるアメリカ映画、それもラブストーリーにはとりわけ、主人公の男女を見守る年長の保護者が必須なのだが、デヴィ夫人はその役割を、想定外の存在感で実に鮮やかに体現している。
誤解をおそれずに断言するが、このドラマがどこかクラシカルで、日本ばなれした、けれどもパラレルではない、確かな情感を保ったフィクションたり得ている理由は、懐かしのスクリーンミュージックの流用にあるのではなく、デヴィ夫人が持っているオーラが作品に独特のムードを付与しているからである。もし、この役を手練れのベテラン女優が演じていたら、このドラマはたちまち陳腐なものに成り果てていただろう。
デヴィ夫人の演技の素晴らしさは、キャラクターの「公」と「私」をひとつに溶け合わせている点にある。もちろん、それはデヴィ夫人そのひとがそのように生きてきたからに他ならないが、デヴィ夫人はここでデヴィ夫人を演じているわけではなく、かつてなにかを諦めたことがある、あるいは最初からなにも願ったことがないかもしれない人物を、わたしたち視聴者のイマジネーションをくすぐる、大らかな芝居であらわしている。そう、この人物は、守を見守っているだけではなく、彼の秘めたる恋に憧れてさえいる。そんな可能性を残した、ニュアンスに満ちた表現になっているのだ。
春野ゆきの「公私」
デヴィ夫人が扮する人物には「公私」の境界線が見当たらない。すべてが「公」であり、また、すべてが「私」である。それはつまり、彼女が、彼女だけが、守の「公」と「私」を見抜いているという設定につながる。
守も、進も、「公私」を切り替えながら生きている。けれども、ほんとうの恋をしたら、「公私」を混同せざるをえなくなる。いや、「公私」混同することがなければ、それは恋と呼ばれる資格がない。
だから、守と進が、ゆきの脚本の映画化のために奔走する、文字通りの「公私」混同ぶりは、必然なのである。
映画作りとは本来このようなものではない。それを守も進も知っている。社会人として、あるまじきことだと理解している。けれども、そうせざるをえない。言わば自覚的に「公私」混同している。彼らは恋をしたくて恋をしたのではない。気がついたら「公私」混同していた。気づいたら、恋の渦中にいたのである。
対して、ゆきは、無自覚である。彼女には「公」がない。それは彼女のキャリアの不在と無関係ではないが、そもそもそのような性格なのである。彼女には建前が存在せず、すべてが「私」である。だから、彼女には一切の遠慮がない。ひょっとしたら彼女は恋をしたことがないのかもしれない。そして、今回も、まだ恋にたどり着いていなのかもしれない。彼女には、他人にどう思われるかという視点が、ほぼない。これは、ある意味、破格のヒロイン像であり、とかく共感度に媚びがちな昨今において、快挙と言っていい。だが、思うのだ。人間はかつて、誰もが、彼女のようなものだったのではないか。
人は自分にないものを持った相手に惹かれる。守も進も、だから、ゆきに惹かれているのである。
星野兄弟の「公私」
わたしたちには、そして、このドラマの登場人物のほとんどには、「公私」がある。
守の独身主義が、実は彼なりの「公私」の相互交通のために必要だったことが、ドラマの後半でわかってくる。結婚に理由はいらないが(その多くは「好きだから」の一言で済む)、独身には理由がいる。その理由をかたちづくることで、彼は「公私」を成立させていた。
そんな彼が「公」のない女、「私」だけで生きる女、ゆきと出逢った。そして「公私」が混濁していく。彼が過労で倒れたのは、「公私」混濁で朦朧としていたからである。そして、そんな彼の恋という病を、あらかじめ「公私」を峻別せずに、「公私」を一体化した女、デヴィ夫人が見つめている。これがドラマ『独身貴族』の構造である。
いよいよクライマックスに突入するが、守がいったい何を失うのか。あるいは、いったい何を得るのか。彼が守ってきた「公私」は維持できるのか、崩壊するのか。そのとき、草��剛が、どんな芝居を見せてくれるのか。
デヴィ夫人の気持ちで見届けたいと思う。もちろん、進の「公私」(社交的な彼は、ずっとそれを遵守して生きてきた)の行方も含めて。
これは個人的な見解であるが、ゆきは、無意識の魔性の女=ファム・ファタルであろう。「公私」の下で生きる男たちはいつだって、「公」の見えない女に魅せられるのだ。『独身貴族』は見方を変えれば、サスペンス・スリラーかもしれない。まだまだ予断は許されない。
文:相田★冬二
※このコラムは、楽天ブックスのオリジナル企画です。