2013.12.17更新
『安堂ロイド A.I. knows LOVE?』とは何だったのか?【前編】
『安堂ロイド』はすべてを赦(ゆる)し、あらゆるものを照らし出す
SFはやがて寓話になり、神話へと飛翔し、ついにはベッドタイムストーリー(寝物語)として降り立った。それが『安堂ロイド』の推移であったと思う。
神が人間を創ったのか。人間が神を創ったのか。この命題は宗教的であり、哲学的であり、心理学的であり、社会学的でもあるが、けれどもここで綴られてきたのは決して複雑なものではなく、きわめてシンプルなものであった。
もちろん、様々な解釈は可能だろう。『安堂ロイド』はあらゆるものを受容する。こうでなければならない、という決めつけはない。劇中で遠藤憲一が叫んでいるように、わたしたちは自分の頭で考えることを忘れなければそれでいいのだ。観たひとの数だけ、『安堂ロイド』は存在する。それは決して朽ちることがない。東京タワーが、今夜もわたしたちを照らしているように。
たとえば終盤、大島優子の物語と、桐谷美玲の物語が、二重写しになる。妹が兄を殺そうとする。これはいったい何を意味しているのだろう。
根拠もなく直感した。これはスカイツリーのことなのではないか。スカイツリーはポスト東京タワーとして登場した。そして、かつて東京タワーがそうだったように、日本中から、世界中から、ひとびとが訪れている。だが、スカイツリーはわかっているはずだ。自分が決して東京タワーになれないことを。あらゆる意味で、東京タワーより勝っているはずのスカイツリーは、絶対に東京タワーにはなれない。「ポスト」は永遠に「ポスト」のままだ。それを運命づけられて、スカイツリーは誕生した。東京タワーあってのスカイツリーなのだということは「彼女」がいちばん理解している。
だが、「彼女」は考えずにいられない。東京タワーの存在を、歴史上から抹殺したら、「わたし」は「わたし」として認められるのではないかと。
けれども、真実は残酷だ。東京タワーは唯一無二だが、スカイツリーはそうではない。たとえ、スカイツリーが東京タワーをなきものにしたところで、東京タワーの灯はわたしたちのなかから消えてなくなったりはしない。
『安堂ロイド』が愛しいのは、いつかはお払い箱になる東京タワーの覚悟に肉薄するばかりでなく、どんなに懸命にもがいても「兄」のようになれないスカイツリーのかなしみをじっと見つめているからである。
毎日、朝がくるように、奇跡はどこかで生まれつづけている
目が見えないひとがいる。耳が聞こえないひとがいる。口を開くことができないひとがいる。記憶を留めておけないひとがいる。わたしたちは知っている。そのひとたちが、そのひとだけの生命を燃やしていることを。
感情をインストールする前のロイドも、同じなのだと思う。わたしたちはときに間違いをおかす。誰かの不自由を欠落と誤解してしまう。だが、それは欠落ではない。生命の基準はひとつではない。基準とは外側にあるものではなく、内側にあるものだ。生命の数だけ基準は存在する。その基準は、他の誰にも規定されない。
ロイドは感情をインストールしたから、ロイドに「なれた」のではない。ロイドに「なれる」から、インストールが可能だったのだ。
ロイドが感情をインストールすることができたのは、サプリがいたからだ。サプリと出逢っていたからだ。
わたしたちは、ときに忘れてしまう。わたしたちが「自分になれる」ことを。わたしたちは「自分になる」ために生まれてきたことを。そのために、誰かに出逢ってきたことを。「自分になる」ために、誰かがいてくれることを。
ロイドは「自分たちは悲劇だ」と言う。回想のなかの沫嶋黎士は「不幸だよ」と言う。真実を発見し、それを信じることは、とてつもなく孤独な行為だ。
彼らはかなしんでいるわけでも、自分自身を憐れんでいるわけでもない。彼らは、何もおそれてはいない。おそれていないからこそ、信じることができる。だが、伝えたいことがある。わかってもらいたいという気持ちもある。
柴咲コウが言う。「わたしは目の前のことを信じる」。彼女が信じなければロイドは存在することができない。彼女が信じることをやめた途端、ロイドは鉄屑と化していただろう。童話のなかで魔法がとけるように。
誰かが何かを信じている。わたしたちは、その誰かを理解できるだろうか。もし、理解できないとしても、理解しようとすることはできるのではないか。誰かを理解しようとすること。それは信じることである。そして、信じることとは想いに他ならない。
誰かを理解しようとしたときに、わたしたちは初めて「自分になる」ことができる。
演技とは何か。その俳優はこう答えた。「誰かを実在させること」。わたしは見た。ドラマの最後、安堂ロイドのすがたかたちをしていた存在が沫嶋黎士を出現させた瞬間を。沫嶋黎士によって存在していたはずの安堂ロイドが、安堂ロイドによって存在する沫嶋黎士に、生まれ変わった。彼はそれを当たり前の奇跡のように体現した。毎日、朝がくるように。一秒ごとに、奇跡は生まれている。そう思わせる表現だった。確かに、そこでは「誰かが実在していた」。実在とは、一瞬ごとに生まれ変わることであり、一瞬ごとに生まれ直すことなのかもしれない。
わたしたちは信じることができていただろうか。わたしたちは理解しようとしていただろうか。わたしたちはロイドを実在させていただろうか。わたしたちの想いは未来に届くだろうか。
自分になろう。何度でも自分になろう。自分自身に生まれ変わろう。自分自身に生まれ直そう。
いずれにせよ。
木村拓哉は東京タワーである。決して倒れない希望の旗である。
文:相田★冬二
※このコラムは、楽天ブックスのオリジナル企画です。