2013.12.24更新
『安堂ロイド A.I. knows LOVE?』とは何だったのか?【後編】
わたしたちは、ふたつの目を持つ
Your eyes.
わたしたちには、目がある。ふたつの目がある。わたしたちは、ふたつの目でなにを見ているのだろう。
わたしたちは花を見る。そして、空を見る。
わたしたちは海を見る。そして、山を見る。
わたしたちは此処(ここ)を見る。そして、彼方(あちら)を見る。
わたしたちは月を見る。そして、うさぎを見る。
わたしたちは近くのものだけを見ているわけではない。同時に、遠くを見ている。目がふたつあるのは、きっとそのためだ。
目がふたつあることで、ひとはしあわせにもあるし、ふしあわせにもなる。だけど、わたしたちは、ひとつだけの目でなにかを見ることはできない。それはわたしたちの可能性でもあり、限界でもある。にんげんにはできることと、できないことがある。わたしたちは、そのふたつを同時に視界におさめている。リアルも、アンリアルも、一緒に見ている。だから、ときどき、ちょっとおかしくなったりもする。
Love & Hate.
羨望と嘲笑。安堂ロイドは劇中で、このふたつにさらされつづける。ふたつは一卵性双生児だ。このポンコツが! もうお前は時代遅れなんだよ! 徹底的な罵倒を安堂ロイドに浴びせる。新型アンドロイドが、あちらの世界の住人が、「妹」が、安堂ロイドを見下そうとする。自分たちがいかに優れているかを誇示する。しかし、そうしたことを繰り返せば繰り返すほど、明るみになるものがある。彼女たち、彼たちは、安堂ロイドにすがっているのだ、憧れているのだ。羨望と嘲笑はコインの表裏ではない。それは右目と左目のように同時に存在する。愛と憎しみがそうであるように。
安堂ロイドが最初に、大島優子を殺そうとしたときのことを思い出してほしい。安堂ロイドは憎しみの下に彼女を殺そうとしていたわけではなかった。彼女が「危険」だから、殺そうとした。「禁じられている」から、殺そうとした。
このときの木村拓哉の表現は瞠目に値する。彼は、安堂ロイドには憎しみという概念がないことを示しながら、それはつまり愛も知らないと同義なのだと伝えた。しかも、ただ合理性遵守のマシーン的な肌触りではなく、わたしたちとは「無関係ではない」なにかがそこには宿っていた。誤解をおそれずに言えば、わたしにはその姿は、「解脱」に見えた。
いま思えば『安堂ロイド』とは、「解脱」した者が「煩悩」まみれの世界に「帰還」する物語だったのかもしれない。すべての「記憶」を失って、自分が誰かも忘れてしまって、「帰ってくる」物語。
『安堂ロイド』がせつないのは、沫嶋黎士の「回復」が、安堂ロイドの「喪失」を意味するからである。もし、これが、たったひとりの男の「記憶」をめぐる「喪失」と「回復」の物語だと仮定したらどうだろう?
その男は記憶を失って帰ってきた。記憶喪失者として、彼を記憶している女性とひとときを過ごした。さまざまな多難を経て、記憶は回復した。今度は女性が記憶している男がほんとうに「帰ってきた」。
そのとき、記憶喪失者として生きていた男はどこに行ってしまうのだろう? 記憶が回復したから、めでたしめでたしなのだろうか?
違うだろう。記憶喪失者はかりそめの存在ではなかった。記憶喪失者は確かに実在していた。
わたしたちは、それを、ふたつの目で見ていた。
わたしたちは、色を塗ることができる
Love & Hate.
憎しみのない世界に行きたいと思う。けれども、それは愛のない世界で生きるということだ。この世界は二者択一ではない。右と左がある。黒と白がある。愛と憎しみが戦争を繰り返す世界だ。愛だけ選ぶことはできない。もれなく憎しみがついてくる。逆に言えば、憎しみだけの世界ではないということだ。憎しみと同じだけの愛が、この世界にはある。
安堂ロイドを体現する木村拓哉はここで、もはや崇高と呼んでいい演技を見せている。振り返ると、にわかには信じがたいことなのだが、彼は今回、声や目を駆使した芝居に向かっていない。ドラマであれ映画であれ、その存在によってあたりを震動させてきた「一点突破」型の演じ手は、この世界を震わせるのではなく、この世界に「見つめられる」表現へと達していた。
もし『安堂ロイド』と呼ばれる物語が、自分が誰かも忘れてしまった者の物語だとしたら、彼には主体は与えられない。彼は客体として存在するのみである。現在の彼に感情がインストールされていないのだとすれば、まわりの者たち(もちろん、わたしたちもそこに含まれる)が彼に感情をインストールしていくだろう。いや、まわりの者たちはそうせずにはいられない。彼を認識するために。彼を肯定するために。愛と憎しみを行使して、彼に内実を与えようとする。
木村拓哉はこれまで多くのひとびとに何かを「与える」表現を続けてきた。ドラマ『ロングバケーション』にしろ、映画『アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン』にしろ、彼はわたしたちにさまざまなものを「与えてきた」。けれども『安堂ロイド』における木村拓哉に対してわたしたちは「与えようとする」。「与える」存在から、「与えられる」存在へ。それが、今回の木村拓哉のかつてない飛躍である。跳躍である。
かつて、わたしは木村拓哉の演技を水彩画にたとえた。だが、現在の彼はもはや絵の具を使用していないように思える。それは素描=デッサンである。自ら色は塗らない。色を塗るのは、わたしたちなのである。
Your eyes.
わたしたちは片方の目で安堂ロイドを見て、もう片方の目で沫嶋黎士を見ている。それを可能にしているのは、一貫して客体でありつづける木村拓哉の演技だ。わたしたちは、目に見えるものだけを見ているわけではない。彼方(あちら)にいたはずの沫嶋黎士を、此処(ここ)にいる安堂ロイドを通して見ていた。そして、これから此処(ここ)にいる沫嶋黎士を通して、彼方(あちら)にいるはずの安堂ロイドを見つめていくことになるだろう。
わたしたちには、それができる。わたしたちには、ふたつの目がある。わたしたちには感情がある。もしかしたら、愛と憎しみを一緒に抱きしめることだってできるかもしれない。片方の目で憎しみを見つめ、片方の目で愛を見つめることができるのだから。
安堂ロイドは何度も闘った。だが、安堂ロイドが闘うとき、そこには一片の憎しみも見当たらなかった。それは安堂ロイドが愛かもしれないし、愛ではないかもしれないものを認識していく過程でもそうだった。木村拓哉はそのように表現した。
憎しみを忘却したまま、はたして愛を学ぶことはできるのだろうか。
にんげんには、まだまだチャンスが残されているのではないだろうか。
わたしたちは、もっともっと、もっともっと、自分のあたまで考えなければいけない。
臆することなく、絵筆をとろう!!
文:相田★冬二
※このコラムは、楽天ブックスのオリジナル企画です。