2014.2.18更新
『福家警部補の挨拶』の石松警部=稲垣吾郎とは、何者なのか
「彼」は、巨大なモノリスなのかもしれない。
『福家警部補の挨拶』は非常に野心的なドラマなのではないかとわたしは愚考している。
たとえば毎回必ず冒頭に提示される逸話。あれはいったい何処に着地するためのものなのだろう。歴史的事象を解釈し直す――つまり世界を分解して再構成する「批評性」がそこには見てとれるのだがドラマ本体との関連性は少なくともわたしには解明できない。たとえば先週の「相棒」と題された回。ゴッホの耳を切り落としたのはゴーギャンではないかという考察。この回は板尾創路とほんこんという現実にも130Rという漫才コンビだったふたりに漫才コンビを演じさせ(実際のボケとツッコミを入れ替えるというお遊び付きで)板尾がほんこんを殺すという物騒な物語を展開したのだが劇中から予測される板尾とほんこんの関係性とゴーギャンとゴッホの関係性にはほとんど因果が結べないのである。あのエピソードは宙に浮いたまま巨大な「問い」としてこちらを睨んでいる。なぜ? というわたしの顔を嘲り笑うかのように「だからどうした」と言わんばかりに胡座をかいているのである。
意味なんか求めるんじゃねえよ。そのまんまで受けとれよ。
こうしたある種の乱暴さがこれまで作られてきたどのようなミステリー・ドラマにも似ていない。作品のなかにミステリーがあるのではなく作品の存在そのものがミステリーたりえている。わたしがそのことに気づいたのもつい先週のことなのである。
冒頭のエピソードは言ってみれば映画『
2001年宇宙の旅』におけるモノリスのようなものかもしれない。そしてモノリスはもうひとつある。稲垣吾郎扮する石松警部である。
「彼」は、ハーメルンの笛吹き男なのかもしれない。
もはや日本を代表するといっていいフレンチレストランに「塩とオリーヴオイルが主役の山羊乳のバヴァロワ」というスペシャリテがある。本体はバヴァロワだが主役は塩とオリーヴオイルであるというこの転倒には味覚の騙し絵ともいうべきまがまがしさが宿っておりわたしたち客はその料理がそう名づけられていることを告げられたと同時に一種の催眠にかかり塩とオリーヴオイルのことばかりを考えるようになる。つまりこの料理においてネーミングは一種の「呪文」である。つまり客は「呪縛」を味わっている。なんという倒錯性だろう。
それと同質の魅惑が『福家警部補の挨拶』にはある。あの冒頭の逸話は「呪文」なのではないだろうか。わたしたちは単なるイントロダクションだと思っていたものに「呪縛」されているのではないだろうか。そのような鈍くスロウなクライシスに明瞭なかたちを与えているのが稲垣吾郎=石松警部そのひとに他ならない。
「彼」がわたしたちを底なし沼に誘う。「彼」はいったい何のためにあの物語に存在しているのか。わたしはいまだにわからない。というよりも。どんどんわからなくなる。ドラマがはじまった当初はわかりかけていたはずのものがもはやまったくわからなくなってしまった。わたしにとって「彼」の存在は「謎」そのものでありあるときは「ハーメルンの笛吹き男」のようにも映る。彼をじっと見つめているとあの伝説で笛吹き男が吹く笛の音に導かれ洞窟のなかに連れていかれもう二度と戻ることのなかった130人の子供たちのひとりになったような気持ちになる。
「彼」は、催眠術師なのかもしれない。
もともと稲垣吾郎の発声には「催眠」効果がある。わたしはこれまでそれを彼の演技フォームのなかにおとしこみ理解しようとしてきたが今回はキャラクター自体がドラマから浮遊しているためそれが非常に難しい状態に陥っている。つまり「バヴァロワ」を味わうことを忘れて「塩とオリーヴオイル」の虜になるしかない。そして困ったことに何処に連れていかれるかわからないことはとても心地良いものなのである。
もはやわたしには石松警部がそうしているのか稲垣吾郎がそうしているのか判別がつかなくなっているのだが「彼」の振る舞いのなかでもっとも求心力を発揮するのが去り際である。「彼」が福家警部補の前から立ち去るとき何ともいえない情緒に支配される。たとえば「相棒」の回で「彼」はくるっと振り返って福家警部補を見るのだがはたしてほんとうに福家警部補を見ていたのか「彼」が姿を消した瞬間不安になるのである。彼はなぜ振り返ったのか。なぜ振り返られなければいけなかったのか。そうした疑問自体が幻となって消えてしまう。そんなとりとめのなさ。
「彼」の振る舞いは福家警部補への嫌がらせや妨害には映らず何か別のことのためにおこなわれているのではないか。そのような疑念も浮かんでくる。
「彼」がふらりと物語のなかに入り込んでは消えていくからこそわたしはその不可思議な余韻に魅せられ「存在の残り香」のようなものをフェティッシュに嗅いでしまう。しかし「答え」はなにももたらされない。
意味なんて求めてはいけません。そのまんま受けとればいいんですよ。
そのような声を聞いたような気がするだけなのである。
目が覚めるときははたして訪れるのだろうか。いつか「彼」が指をぱちんとやって「催眠」がとけるのだろうか。
わたしはそのときを待っているのか。それともそんなときが訪れないほうがいいと思っているのか。わからない。いずれにせよわたしは見つづけるのだ。『福家警部補の挨拶』の「彼」を。
文:相田★冬二
※このコラムは、楽天ブックスのオリジナル企画です。