2014.2.25更新
中居正広、『劇場版 ATARU』における演技の真相と深層について
チョコザイはなぜ「記憶」に残るのか
『劇場版 ATARU THE FIRST LOVE & THE LAST KILL』がDVD化されます。再見した上でお話ししたかったのですが、残念ながら再見することができませんでした。ですから、これからお話しすることは、あくまでもわたしの記憶に基づくことです。
記憶に残る名演――というクリシェ(決まり文句)がありますが、中居正広さんのチョコザイが、なぜわたしたちの記憶に残っているか。そのことについて考えてみたいと思います。
絵本『シャボンだまのきせき』の読み聞かせCDを耳にしてもわかることなんですが、中居さんは声だけで完全にこのキャラクターをつくりあげています。当たり前のことではないか。そう考える方もいらっしゃるかもしれません。自分が演じる人物の声質や話し方、イントネーションなどを編み出し、それを複合させ立体化していく作業は役者の基本中の基本だろう、そう断言される方も少なくないかもしれません。そうかもしれません。ただ、そのことをここまでのレヴェルで成し遂げている俳優は、わたしが知るかぎりほとんどいないですね。
公式HPではいま現在でもいくつかのトレーラー(予告編、特報)を観ることができますので、そこで確認できるとは思いますが、チョコザイの声というのは聴覚でも視覚でもない、なにか別なところに「ふれてくる」ものなんですね。
中居さんはある「型」の下に、チョコザイを演じているとインタビューで語っています。そしてそれはアスリートのフォームのようなものだ、とも発言しておられます。たしかに、チョコザイの首のかしげ方、あるいは表情らしきもの、手の動き、そして歩行や静止といった「アクション」は「型」で考えることができるでしょう。ひょっとしたら、鍛錬に鍛錬を重ねればわたしたちにも真似ができるかもしれない。けれども、あの声は決して模倣することができないのです。それは中居さんの声帯と、わたしたちの声帯は違うから、という生物学的、遺伝子学的な理由には還元されません。
そうではないのです。「声帯模写」ということばありますが、声帯はそもそも模写できない、その真実をチョコザイのあの声は体現しているわけです。ここで披露されているのは、単に中居正広さんの声帯ではなく、中居さんが中居さんの内部から見出した「ただひとつの声帯」です。その声帯に、わたしたちは吸引されています。
チョコザイを観客に「支配させる」
声は俳優にとって、最初の武器であり、最後の武器です。声を駆使できないひとは俳優ではないし、また、駆使できる声を持っていないひとは俳優になるべきではありません。向いている、向いていない、ではないのです。そのような声があるか、ないか。残酷なようですが、ただそれだけのことなのです。
中居さんがチョコザイのために選び取った声帯は、いわゆる「魔力」と呼ばれるようなものとは違うんですね。チョコザイの声には支配力はありません。逆です。わたしたちはチョコザイの存在に「支配される」のではなく、わたしたちがチョコザイという存在を「支配する」感覚を、この声は授けてくれるんですね。「支配する」感覚によって、あるひとにとっては母性本能をくすぐられるでしょうし、あるひとはフェティッシュに愛玩=愛撫することにもなるでしょう。「支配する」というのがどういうことかといえば、対象を「自由にしていい」ということなんです。
つまり、中居さんはここで、観客がチョコザイを「自由にしていい」と思わせる声を発しているのです。もしあなたが、チョコザイの声って小動物みたいで可愛いよね、と感じているとすれば、それがあなたとチョコザイの関係性を規定しています。それは「あなたが規定している」のです。つまり「あなたが支配している」。中居さんは、チョコザイと観客の関係を無限に拡張するために、この声帯を選んだのだということが考えられると思います。
中居さんは、謎の存在としてチョコザイを表現しているわけではありません。どのような関係を結んでもらってもかまわない――そのような視座の下に、チョコザイを作り上げているのです。
チョコザイの声を「待つ」ということ
中居さんが『劇場版 ATARU』で成し遂げていることは、ほとんど神懸かりといってもいいでしょう。わたしは、もはやそれを伝えることばを有してはおりませんが、ひとつだけ演技「技術」として付け加えることがあるとすれば、声と「アクション」(先ほどお話したことです)の立ち位置が、きわめて綿密に構築されているということですね。ご存知のように、チョコザイの台詞は多くはありません。そして、わたしたちが通常考えるような情緒が、彼の台詞にはほとんど漂わない。だからこそ、わたしたちは彼の声に耳をすます。そこでなにかを掴みとろうとするのです。彼を理解しようとする。
この状態は別な言い方をすれば「待つ」ということになります。端的に言えば、わたしたちはチョコザイがしゃべる瞬間を「待っている」。チョコザイを「求めている」。この欲望が、「支配する」感覚と密接に結びついていることは無視できないでしょう。
言ってみれば、チョコザイの「アクション」は、彼の声を「待つ」ために用意されているのです。わたしたちは彼の「アクション」にふれるたびに、彼が「欲しくなる」。演技行為は「言」と「動」に分けることが可能ですが、チョコザイの「動」は「言」を「待つ」ような効果をもたらします。中居さんはそのようにしてチョコザイの「アクション」をつくりあげ、「待つ」のにふさわしい声帯を準備しているのです。
DVD、はやく再見したいですね。再見すれば、中居正広さんがクリエイトしたチョコザイの「言動」に眠るさらなる何かが見えてくると思います。
文:相田★冬二
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