2013.8.20更新
映画『おしん』が垣間見せる、稲垣吾郎、演じ手としての真価
稲垣吾郎は、一瞬の輝きを飛翔させる
映画『おしん』は、稲垣吾郎の俳優としての真価を明るみにした傑作である。では、この演じ手の真価とは何か。その前に、この6月に東京と大阪で行なわれた舞台「ヴィーナス・イン・ファー」での彼を振り返る必要がある。
それは、ニューヨークの劇作家の物語だった。稲垣吾郎はコスプレに頼ることなく、ニューヨーカーとしてそこに立っていた。
ひとりの男とひとりの女の立場が、入れ替わり変幻し、転がり絡まり、接近し乖離し、分離し溶け合う、複雑な示唆に富んだ二人芝居。劇作家と女優が束の間「劇」に没入することで、互いの境界線があやふやになり、それぞれの「領地」を侵略したり侵略されたりする。「演じること」への深い思考に誘う内容だ。しかし、稲垣吾郎は、そうしたありとあらゆる複雑なファクターをすべて飲み干し、けれども決して足元をすくわれることなく、とてもシンプルなテーゼを提示してみせた。
ここで起きていることは、誰にでも起こりうること。そんな人間の普遍=真髄を直感させるものとして、彼の表現はあった。そこでは、もはや男であることや女であることさえ問われてはいなかった。終盤、女性を「演じる」稲垣のまるで極上のムースを思わせるナチュラルで滑らかな芝居は、その証明だった。
ドラマティックな展開をはらむ舞台でありながら、稲垣の演技には焦らしたり「間」をためたりする作為が見当たらなかった。人はあるとき、真剣になる。その一瞬の輝きを、人物設定や喜怒哀楽に規定されえぬドリーミンなサムシングとして捉え、ただ宙に浮かせ、飛翔させていた。
稲垣吾郎は、「息遣い」に人物固有の感情を託す
稲垣吾郎は『おしん』で、主人公おしんの父親、谷村作造を演じている。彼が、明治時代の寒村で子だくさんの小作農に扮していることに、戸惑う観客もいるかもしれない。だとすれば、それはイメージの固定化にすぎない。稲垣吾郎というイメージの固定化であり、「おしん」というイメージの固定化である。いずれの固定化も不幸だと思う。なぜなら、稲垣吾郎はそうしたイメージの固定化から、もっとも遠くにいる表現者だからだ。
コスプレに頼ることなく、ニューヨーカーとして舞台に立つことができる男にとって、明治への越境など大したことではない。過酷な暮らしや土壌といった背景=環境への同化を、彼は熱演とは別種の真摯さで、あくまでもさり気なく実現している。
重要なのは、彼がここで口にしている山形弁であろう。こうした作品において方言指導に則した言葉遣いをするのは、俳優として当たり前のことであり、それができない者には役者の資格はないと断言してもいい。稲垣もまた、この演じ手の「義務」をしっかり全うしている。だが真のプロフェッショナルである彼は、その次元にはとどまらない。山形弁の息遣いで、人間の個性を発揮するにはどうしたらいいかに熟慮し、それを達成させている。わたしは東北出身者なので自信を持って言えるが、稲垣吾郎は山形弁を「模倣」しているわけではない。多くの俳優は方言を話すとき、「模倣」に足元をすくわれる。つまり、標準語を方言にトレースすることで精一杯になってしまう。そのとき、標準語を話す人間の感情表現と、方言を話す人間の感情表現の「違い」がおろそかになる。結果、方言の「ぬいぐるみ」をかぶった標準語の感情表現が、死体のように横たわることになる。
稲垣は、山形弁の息遣いでなければ、伝えられない感情を模索し、その上で谷村作造という男を出現させている。
稲垣吾郎は、「大黒柱」のように映画を支える
彼がここで体現しているのは、「大黒柱」という概念である。かつて、日本では、たとえどんなにひ弱でも、一家の長は「大黒柱」を担わなければいけなかった。それは「振る舞う」と同義でもあった。本人の性格が粗暴であろうがなかろうが、骨太であろうがなかろうが、「大黒柱」という役割が必要だったのである。
谷村作造の「振る舞い」にわたしたちは、「大黒柱」としてそこにいようとする男の姿を見る。そして、かつて当たり前のように存在したその重圧ごしに、作造自身の心性を感じとる。
稲垣の出演場面は決して多くない。彼は最小の動き、最短の時間で、作造固有の心性を伝える。キャラクター個人の心模様をあらわすことが、「大黒柱」という歴史や、方言に染み付いている土地の記憶に結びつく。つまり、ミクロのさざなみが、マクロの大波を描き出すことになる。そうして作品を支える。まるで「大黒柱」のように。
舞台について前述した通り、稲垣吾郎の演技には焦らしたり「間」をためたりする作為が見当たらない。彼は無駄なことは一切しない。説明を排して、人間という「波紋」だけを映し出す。最終盤、「大黒柱」が見せる振る舞いは、だからこそ美しい。
稲垣吾郎はコスモポリタンである。彼は、演じる者(アクター)と演じられる者(キャラクター)とのあいだに本来あるはずの「国境」をすり抜ける。稲垣吾郎は、複雑なものをシンプルに差し出す料理人であり、魔術師でもある。
文:相田冬二
※このコラムは、楽天ブックスのオリジナル企画です。