2014.7.15更新
格調のある無頼──『HERO』が明るみにする木村拓哉の本質。
カメラを完全に無視するということ。
おはようございます。相田☆冬二と申します。今日から相田★冬二をやめて、相田☆冬二をはじめることにしました。はい、冷やし中華みたいな感じで。
えーっとですね、わたし、7年前に、映画『
HERO』の劇場用パンフレットで、キャスト・スタッフのインタビューを担当させていただいたんですよ。そのなかで、児玉清さんがこんなことおっしゃってました。
「検事がひとつの無頼である、というこれまでになかった設定を『HERO』は突いている。しかも、格調のある無頼。これは木村さんでなければできなかったんじゃないかな」
児玉さんっていうか、鍋島利光さんっていうか。
「木村さんには感動したことがあってね。彼はカメラを意識してない。完全に無視してる。無視してないようで無視してる。その見事さ。僕らの世代はカメラがどこにあろうが、どうしてもある程度意識してしまう。彼はカメラがどこにあろうが、まったく自由に振舞ってるね。だから、観ている人は彼の動きに納得できるわけだよ」
鍋島さんっていうか、児玉さんっていうか。
まあ、つまり、そういうことなんです。
自由っていうのは、なにかを無視することなんです。しかも、無視してないようで無視してることが大事なんですね。無視してるようで無視してない。これじゃあ、駄目なんです。わたしたちの普段の生活のことを考えると、そんなんばっかりですね。ネットとかに対する態度、特にSNSにはそういうことが多くないですか? あ、わたしは多いです。そういうの、おれには関係ねえよ、ってフリして、気にしてんの、いろんなこと。これがね、無視してるようで無視してないって状態ですね。それって、つまり、支配されてる、ってことなんですよ。現状に。現状に支配されてるほうがラクですもんね。人間。ほとんどの場合、無視してるようで無視してない、そういう状態に自分を置くことで、わたしたちは安心して、安全圏内で暮らすことができるんですね。
無視してないようで無視するということ。
わたしたちは、自由っていうことばを、それこそ自由に使ったりしますが、自由がどういうことかと言えば、それは不安になる、っていうことなんです。自由は不安ですよ。めちゃくちゃ不安です。いま、こうして書いてても、やっぱり不安ですもんね。
『HERO』のなかで、木村拓哉さんっていうか、久利生公平さんは、やはり何かを無視している。昨夜、そのことを思いました。それは、児玉さんっていうか、鍋島さんっていうかがおっしゃっていたように、まずカメラ、ではあるでしょう。しかし、カメラに留まることではないような気がしました。カメラに象徴される何かを、木村さんっていうか、久利生さんっていうかは、無視してると思うんですよね。で、それって、すごくヘンなことなんですよ。ヘンって、つまり、自由ってことなんですけどね。
『HERO』というドラマには独特のテンポがあって、それは主に、被写体たる登場人物たちの掛け合いのスピードによって決定されているんですね。でも、木村さんっていうか、久利生さんっていうかは、この速度とかリズムをまず無視している。それは、多くの場合、久利生ってマイペースだから、という彼の言動をめぐるパーソナリティの規定で、ついわたしたちは納得してしまいがちなんですが、そうではないと思うんですよね。久利生って、決してゴリ押しするタイプじゃないし、そこにいるひとたちのノリを疎外しているわけではない。案外溶け込んでるんですよ。ちゃんと会話は成立している。絡むし、絡ませるし。すべてを、完全に無視していたら、こういうことにはならない。だけど、本質的には、無視してないようで無視してる。大きなものを無視している。その大きなものがなんなのか、わたしたちはわかるようでわからないのだけど、それが、無視されている、ということだけは、からだのどこかで感じている。だから、木村さんっていうか、久利生さんっていうかの、動きに納得しちゃってるんですよね。
この、無視してないようで無視してる状態が、昨日の『HERO』では、前のドラマにも、前の映画でもなかったような、大らかで、緻密なやさしさによって、達成されているように感じました。で、ぶっちゃけ言うと、これが、木村拓哉というひとの演技の本質だと思うんですね。
目の前の時間を無視するということ。
具体的にみっつ例をあげますね。
まず、ひとつ。
久利生さんが、雨宮舞子の真似をするところがありますよね。しかも、雨宮のことを知らない女性の前で。あれ、すごくないですか? あれがね、木村さんっていうか、久利生さんっていうか、ならではの無視なんですよ。無視というのは、たとえば、そこにいるのに、そこでは生きていないということです。別な時間を生きること。すなわち、目の前にある時間を無視しているんですね。これは設定とか、台詞によるものではありません。わたしは何度も繰り返し再生しましたが、木村さんっていうか、久利生さんっていうかは、ただずまいそのもので、時間を無視しているんですね。
時間と言えば、クライマックスで、こんな台詞がありましたね。
「おれ、さっきから、すごく大事な話してるんですよ。時計ばっかり見てますけど」
あの目、すごくないですか? カメラ目線とは違うんですよね。アングル的にはカメラ目線なのに。言うまでもなく、木村さんっていうか、久利生さんっていうかは、カメラを無視してるんだけど、じゃあ、その無視はなんのためにおこなわれているか、ということを、ほとんど理由もなく、わたしたちは納得しているんですね。否応無く納得していると言ってもいい。これが、ふたつめ。
で、みっつめは、クレジットが流れはじめてからの、最後のところ、「つきあってたんですよね」と言われたときの無言の表情です。あの顔、すごくないですか? あれがですね、あれこそがですね、格調のある無頼、ということだと思います。格調とは自由、ということです。そして、無頼とは無視する、ということです。
木村さんっていうか、久利生さんっていうかが、何を無視しているか。どうして無視しているのか。それを追いかけることこそが、『HERO』を見つめることだと思うのです。
木村拓哉という俳優は、自由を表現しています。不自由を生きることが当たり前の、不自由であることが安心できる世界のただなかで、いささかたりとも不安を感じさせずに、自由を体現すること。わたしたちが、彼に惹きつけられるのは、おそらく、彼が不安を無視しているからです。自由は、人を不安にさせます。しかし、同時に、その不安を無視するちからが、自由には含まれている。そのことを、わたしたちは、木村拓哉を通して、発見しつづけているのです。
文:相田☆冬二
※このコラムは、楽天ブックスのオリジナル企画です。