2014.11.25更新
中居正広が接続するもの──『ミになる図書館』をめぐって。
人間は「情報」ではない
11月18日、『中居正広のミになる図書館』を観ました。
漫画家さんたちがたくさん登場して、この業界ならではの驚きのネタを、ご自身の体験を踏まえた上で披露するという内容でした。言ってみれば、明るい告白大会ですね。
わたしたち視聴者が、何に興味を持つかによって、テレビ番組で提供される情報の価値は変動します。大雑把にくくれば、価値のある情報と、価値のない情報があるわけです。もはや死語となりましたが、わたしたちは、テレビに限らず、様々なメディア(だれかが直接伝えてくる噂話などもここに含まれますね)を通して目や耳に飛び込んでくる情報を「仕分け」しています。ほとんど無意識のまま、それをおこなっています。
この日のこの番組で提供されたネタにも、価値のある情報と、価値のない情報があったと思います。その基準は、先ほど申しました通り、ひとそれぞれ、千差万別ですから、それぞれのネタをここで紹介しても、ほとんど意味はないとわたしは考えます。
情報バラエティというカテゴリーで、単一の番組をくくるのが正しいのかどうかはわかりませんが、情報バラエティと呼ばれる番組(そうでない番組もそうなのですが)には、とてもたくさんの方がコメンテーターとして出演しています。初めて観る番組ですと、だれがレギュラーで、だれがゲストなのか、一瞬わからないほどで、準レギュラーみたいなひともいますから、むしろ、意図的に、そのひとたちがどこに所属しているかの「差異」は伏せられているのかもしれません。あまり良いたとえではないかもしれませんが、野球場の外野席と内野席の仕切りがあらかじめ取り外されていて、すべて自由席均一料金、みたいな感じを受けます。
語弊があるかもしれませんが、番組によっては、タレントさんの存在が、情報=ネタとして扱われているように感じられるときがあります。わたしたちには、好みというものがありますから、そのような番組を前にしたとき、出演者を「仕分け」してしまったりもします。意味のある出演者、意味のない出演者、というように。とても残酷なことですが、これもまた無意識におこなわれていることです。しかし、『ミになる図書館』は、そうではありませんね。
人間は情報ではない。この大原則が守られているからだと思います。では、どのように守られているのか。
「自分流」を解体する
中居正広さんがMCを務めている番組について語ろうとするとき、それにふさわしいことばが見つけられず、わたしは常に混乱してしまうのですが、それは、中居さんが複数の番組で一貫性のあるMCをおこなっているわけではない、ということが大きなひとつの要因としてあげられます。そして、中居さんは、番組ごとに、明確に、方向性をスイッチングしているわけでもありません。テレビ局も違えば、他の出演者も違いますから、番組そのものは当たり前のように違ってはいるのですが、それは番組の違いでしかなく、中居さんが番組それぞれに対して、はっきり、ご自身を変えているようには思えません。つまり、中居さんのMCは、いつも同じ、というわけではないが、番組ごとにまるっきり違うわけでもない。だから、語りづらいんですね。
この日、とりわけ印象的だったのは、主演ドラマ『味いちもんめ』について、その原作者を前にして語るときの様子でした。なんて言うんですかね。自分というものを完全に「情報化」しているわけです。「素材」と言ってもよいかもしれません。主人公を演じた人間として熱く語る、みたいなことが一切ないんですね。ご自身が深く関わっているネタであるにもかかわらず、いや、だからこそ、まるでゲストのように、そこにいる。MCなのに、証言者のひとりと化す。
それは、漫画、ならびに漫画家への敬意というものが根底にあるからかもしれません。また、この日の「主役」が漫画家である、という自制がそうさせているのかもしれません。しかし、それ以上に、これは、中居さんの姿勢そのものを示しているような気がしました。
中居さんには、いわゆる冠番組が何本かあるわけですが、そこでおこなわれているのは「自分流」を強く認識させるようなMCではありません。もちろん、中居さんには中居さんなりの芸風がありますから、それを効果的に利用していますが、その流布が本質に据えられているわけではありません。むしろ、わたしたちが「自分流」ということばから想起する、ある種がんじがらめになった概念を、結果的に解体しています。
「このひと」を見よ
「あのひとはいいこと言うね」。わたしたちが主に善意から、コメンテーターを(あるいはMCを)、そのように評するとき、わたしたちは無意識のまま、「品定め」しています。それは、とりもなおさず、人間と情報とをイコールで結びつけることです。「あのひとはいいこと言うね」。つまり「あのひと」=「いいことを言うひと」という規定がそこでおこなわれてしまう。本当は「あのひと」ではなく「このひと」と認識しなけばいけないし、「このひと」の固有性を見つめなければいけません。「このひと」は、どんなひとなのか。それを感じるべきなのです。
この日、出演した漫画家さんたちは、みなさん個性がバラバラでした。テレビ出演がデフォルトではない漫画家さんたちは、おそらくご自分の芸風には無自覚だと思います。しかし、彼ら彼女らのアイデンティティは、短い時間のなかで際立っていました。「あのひと」ではなく、「このひと」が、そこに存在していました。
「あのひとが、こんないいことを言った」ということよりも、「このひとは、こんなふうに話した」ということが、強く記憶に残りました。
中居さんがおこなっていることが何なのか、わたしは説明することができません。ただひとつ言えることは、 中居さんは出演者をテレビというメディアに「接続」するために、あえてご自身を「情報」として扱っているのではないか、ということです。そして、番組を「仕切る」のではなく、自分自身を「提供する」ことこそ、MCのすべきことだと捉えているのではないでしょうか。Masahiro connects……思いきって、そう訳してみたくもなります。この「MC」は、人間は情報ではない、という真理に「接続」していると思うのです。
相田“Mr.M”冬二
※このコラムは、楽天ブックスのオリジナル企画です。