2014.12.9更新
木村拓哉は木村拓哉を制御しない──『宮本武蔵』特典映像について。
自分の伝説を聴く
『宮本武蔵』本編に関しては、既に異例の二日連続更新によってレビウしている。また、メイキング映像についても、ここではふれない。それは、目撃すべきひとが目撃すればいいだけだと考える。わたしは、これから書こうとすることに濁りが生じてはいけないので、あえてメイキングを見ていない。
特典映像の最初におさめられている制作発表の様子についてのみ記しておきたい。「完全版」と銘打たれているということは、「不完全版」がテレビ放映された、ということなのだろうか。しかし、この映像もまた、まるごとの収録ではなく、あくまでも編集が施されてはいる。
タイトルロールを演じる男が中央に座っている。彼のまわりを、共演者たちが囲んでいる。
彼が、いかに、本気で、宮本武蔵を体現することに取り組んでいたか。そのことを、同じ土俵に立った者の実感として、周囲の俳優たちは語る。それは、あたかも、ある伝説に立ち会ってしまった者が、森から帰還し、その体験談を麓の住民たちに伝えているようにも映る。
ある者は、彼は、満を持して、いま、宮本武蔵になるときを迎えたのではないか、と証言する。また、ある者は、以前彼と共演したことがあるため、その印象で再会したら、まったく違う状態の彼だったことに愕然とし、その気迫に必死についていこうとした、と述べる。
しかし、それら伝説の内実が重要なのではない。
真に重要なのは、 彼が、そのように共演者たちが語る伝説を、どのような面持ちで聴いていたかである。
安全圏の外側へ
木村拓哉はすごい。
簡単に言えば、そのようなことを彼らは、具体例を用いながら、また、自身のオリジナルな感性がキャッチしたなにものかとして、ことばで表現していたにすぎない。
もし、自分が木村拓哉だったとしたら? まずは、そう仮定してみてほしい。ぼくが、わたしが、木村拓哉だったとして、共演者全員から、目の前で、絶讃を受けたとしたら、どのような面持ちで、舞台の上に座っていることができるだろうか。
そんな想像はできない。あなたがそう答えるのなら、だれか別の俳優が、そこに座っているとしたら? そう仮定してくれても構わない。
あなた、もしくは、その俳優は、どこか照れたような笑顔を浮かべながら、そこに座っているのではないだろうか。
なぜなら、そうするのが、いちばん楽だからだ。
いや、そうするのが、いちばん、当たり障りのない方法だからだ。
社会人としての外面(そとづら)を、ほどなくキープするための、もっとも合理的なやり方だからである。
だれかに、目の前で褒められたとき、わたしたちは、もはや無意識に、そうしている。
照れたようなふりをして、そんなことありませんよ、という顔をして、曖昧な笑いで、なにかを覆い隠しながら、そこにいる。
ひとによっては、そうなんですよ、ぼく、すごいんですよ、とあえて開き直って、ギャグにもっていくだろう。また、もう少し、自意識が過剰な人間であれば、わたしは当たり前のことをしているだけです、とかなんとか、ストイックな哲学なんぞを口走って、フォームをチェンジした謙遜に落ち着くだろう。
しかし、そうした振る舞いのすべては、欺瞞(ぎまん)にすぎないことを、わたしたちは知っている。すべて、自分を安全圏内に置くためのごまかしなのだということを、なかば忘れたふりをしている。
そうして、いたたまれない時間をやり過ごすことが、もはや当然のことになっている。
そして、木村拓哉の態度は、わたしたちに、いかに勇気が欠けているかを教えてくれる。
心頭を滅却する
子供のころは、だれかに褒められたら、うれしそうにしていたはずである。よろこびを、あらわしていた。それが素直、ということになっていた。
だが、あるときから、わたしたちは、他人の目を気にするようになった。うれしそうにしていたら、かっこ悪い。よろこんでいたら、馬鹿だと思われる。それに、なにより、自分本位な人間だと受けとられる。
そうしたことを回避するために、あの、だらしない、薄ら笑いを浮かべるのだ。照れたふりをして、カモフラージュするのだ。
木村拓哉は、だれが、どのように、彼のことを褒め称えようとも、照れてはいなかった。ほんとうは照れていたのかもしれないが、照れを表出させるような、はしたない真似を完全に抑止していた。少なくとも、わたしには、そう見えた。
笑ってなど、いなかった。だれかと語り合うことで笑顔を浮かべる瞬間はあったが、だれかに褒められて、表情を崩したり、なにかを隠蔽したり、その場をしのいだりということが一切なかった。
ひょっとしたら、耐えていたのかもしれない。だが、限りなく無表情だった。
心頭が滅却されていた。
ただ、そこにいた。
これは、思想にかかわることではなく、姿勢にかかわることである。
窮地に立たされたとき、そのひとの姿勢は試される。
もう一度、考えてみてほしい。
あなたが、木村拓哉だったとしたら、周囲の者全員に褒められて、どんな顔をしていただろうか?
木村拓哉は、自分の表現に責任を持っているのだと思う。自信満々なのではない。ただ、宮本武蔵を「実在」させるのは、この作品において、自分ひとりしかいない、という至極当たり前の真実に、ひるむことなく向き合っていた。だからこそ、あのような態度、あのような姿勢を、スライドさせることなく、そこに「立てていた」のではないだろうか。
わたしたちは、木村拓哉に圧倒され、震撼させられ、ときに畏怖をおぼえることもあるが、それは、とりもなおさず、このような木村拓哉を、神経のどこかで知覚しているからに他ならない。
木村拓哉は、木村拓哉を制御しない。これまでも。これからも。
相田“Mr.M”冬二
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