2015.5.5更新
中居正広はフォースの使い手である──『ナカイの窓』をめぐって。
場そのものが笑うこと
「ナカイの窓」を観ました。この番組は何回か接触していますが、この週の平成世代SPもやはり凄かったです。
その凄さがですね、ほとんど言葉を失うしかない凄さなんです。言葉をいくら費やしても、決して表象することはできない。そんな不毛さを、あらかじめ突きつけられている、と言いますか。中居正広は凄い。ただ、そう呟くしかない凄さ。どうして、呟く、という文字と、眩しい、という文字は同じ部分を共有しているのでしょうか。それは、中居正広が眩しいから、などと、あらぬことを呟きたくなるほど、凄い。
この連載で、何度か、中居正広の表現をめぐる技術論めいたものを綴ってきましたが、もう全部忘れてください。
いまでも、中居正広は演技の天才だと思っていますし、彼のインタビュアとしての抜きん出た才能には頭(こうべ)を垂れますが、そうしたことは、このひとにとっては何てことはなかった、そう吐露するしかありません。中居正広の表現を技術で語ることに、おそらく意味はないのだと思います。
中居正広という表現者を考える上で、この番組は、ラジオに匹敵するくらい重要な作品だと考えられます。ラジオが、あらゆる能力を総動員して「なにもしていない」状態を作り出しているとすれば、『ナカイの窓』は、なにもしないことで「あらゆることをおこなっている」。もはや、先輩タレントに対してどんなふうに接しているか、後輩タレントに対してどんなふうに触っているか、そういうことではない。中居正広は、手ぶらで、そこに立ちながら、しかし、間違いなく、場は活性化している。そこに集ったひとびとを超えて、場そのものが笑っている。そこでは、座長が場を牽引している、というのとはまったく違う現象が起きているのです。彼がなにもしていないはずはない。しかし、彼がなにをしているのか具体的に突き止めることは不可能に思える。そして、このことこそが、『ナカイの窓』最大の魅力です。
そのエナジーは理力
『ナカイの窓』の中居正広は、非常に楽しそうです。自分の泳ぎやすいフォームで泳いでいる、というより泳ぐことそのものを楽しんでいるように映ります。
しかし、彼はかつて、わたしのインタビューに対して、こう答えています。「仕事を楽しむという感覚は自分にはない。楽しんでしまったら、それは自分にとって仕事ではなくなってしまう」。中居正広は、MC業についてのプロ意識が半端ないひとですから、『ナカイの窓』も、わたしたちが想像するような「楽しみ方」とはまったく別次元から、送り届けられているのだと思います。
たとえば若き日の自身のエピソードを披露する際の、加減。そこでは、あらゆる話が自虐ネタに結びつくようなブラックなルールが敷かれていますが、その「黒さ」に体温がある。その一方で、同じネタでオトす、ということも何度か繰り返すのですが、その「明るさ」が何気に間接照明的だったりするわけです。中居正広はヤンキー体質をウリというか、パブリックな芸風としてのイメージに置いていますが、こうした「黒さ」「明るさ」のコーディネートが、ぜんぜん俺様ではなく、とても繊細なのです。その達成を、人間力の一言で片付けるのは簡単ですが、決して、そうはさせてくれない冷静なエナジーを感じます。
思考停止と罵倒されるのを覚悟して、次のように表現いたします。中居正広は、フォースの使い手である。かつて、フォースは「理力」と訳されていましたが、この字面が、現在の中居正広にはとてもふさわしい。そう思うのです。
相田“Mr.M”冬二※このコラムは、楽天ブックスのオリジナル企画です。